(平成24年3月2日)

「お疲れの将棋大会」
 年度末を控え将棋のイベントもいよいよ大詰めを迎えた先日、従来より当支部が開催地となり実施してきたのが県連主催の小学生将棋名人戦県大会です。今回で37回を数えるこの大会は、小学館・集英社杯小学生名人戦とも呼ばれ日本将棋連盟主催、文部科学省・文化庁後援、小学館・集英社が協賛する全国大会の前哨戦でもあるのです。県下より代表者一名が3月下旬に行われる東日本大会・西日本大会へ駒を進め、上位四名が4月中旬(予定)の準決勝を戦うことになります。参加資格は準決勝、決勝戦(例年5月のこどもの日にNHKで放映)が次年度となるため現時点で5年生であることが必要となり6年生は参加出来ないのです。
 県大会は当初10名にも満たない少人数でしたが、年々出場者を増やし今大会は予定者が51名と昨年度に対し3割以上膨らみ、急きょ付き添い来場者への駐車スペースを確保する等予定外の忙しさがありました。この増加傾向がデジタルゲームからアナログ回帰となる古来のゲーム脳への転換を誘発し集中力を養成しているとなれば言うことはないのですが、実態はもう少し時間を掛けなければ分からないところです。
 大会には来賓として又、指導対局をお願いし遠路お越しいただいたのは、日本将棋連盟の棋士である高崎一生5段でありました。米長現連盟会長門下の新鋭であり現在順位戦はC-1、この小学生将棋名人戦の1998年第23回大会の優勝者でもあるとのこと。歴代優勝者の記録を見ると1982年第7回大会にはあの羽生善治二冠の名前もありました。高崎5段が将棋界随一の覇者と肩を並べて活躍できるよう願わずにはいられないところです。
 大会はA,B二組に分かれリーグ戦を行いますが、棋力上位者がA組へそうでない者同士はB組での戦いとなり、A組(A-1,A-2)それぞれのリーグ戦勝数上位2名(計4名)による決勝トーナメント、B組(B-1,B-2,B-3,B-4)も同様にそれぞれ上位2名(計8名)によるトーナメントに進みます。そこで一位~三位が決定するのです。B組は全国大会への切符は無いにせよトーナメントを戦い一位~三位までには賞状・賞品が授与されることになります。
リーグ戦が始まると相変わらず指し手は早く、どの組も数分もしない間に対戦を終えリーグ表掲示板前に待機する役員へ次々と勝ち負けを報告しにやって来る。競技が始まって2時間が経過する頃にはリーグ表の空欄はなくなっていたのです。表には赤○か黒×が押印されている。子供の直観力は評価できるのだが、もう少し時間をかけて欲しいと願うは見つめている大会役員ばかりである。昼食を済ませた午後1時にはA組もB組もトーナメント戦に入っていたのでした。
 A組のトーナメントを戦う少年棋士はさすがに違う。感心する手を連発する。その度にしげしげと少年の顔つきを眺めたりもする。だが、やはり早指しは命取りだ。もう少し、ほんのわずかな時間を投入しさえすればこの手を発見できたのではと思うことしきりである。準決勝中の対局に大人でなければ指さない局面が表れていた。いわゆる持将棋模様の局面である。自分から動くと不利になる恐れがある局面では、持将棋とし先手後手入れ替えて指しなおすのである。小学生低学年のその子は堂々と持将棋風に形を整え受けの将棋を披露している。余程受けに自信があると見える。方や優勝候補の高学年生は敢然と攻めかかったのであった。結果は低学年の子が受け損じ敗退したのだが、なかなかにユニークな珍しい将棋を指す子供であった。決勝戦では優勝候補の高学年生が破れたのは予想外であったが、競技としてはなかなかにハードルの高い大会であったと思うのである。
 誰一人故障者も出ず、表彰式も無事終了し滞りなく予定をこなせたのは参加者全員の協力のおかげと感謝している。

 大会中は何かと気忙しく腰も随分疲れていたため片隅の椅子に座り休んでいると、帰り支度をする子供が目に入った。A組の4強の内の一人である。
「僕、強いね」
称賛のつもりで声を掛けたのだ。しかし、隣にいた父親もその男の子もちらっとこちらを見るそぶりをしただけで答えは返ってこなかった。変な親爺には関わりたくなかったのかも知れない。さっさと身支度を整えるとその会場から去って行ったのである。
視線で見送ったのだが、何故か疲労感がどっと出たのであった。

トップ      ホーム