(平成23年5月8日)
「アルタミラの壁画」の衝撃
 30年以上前のことだが、東京にある中野造形美術研究所というところへ絵の勉強に通っていたことがある。
私がデッサン室で石膏を相手に格闘していた時、東京芸大のA先生が大きな豪華本を持ってやってきて、その本を開き「どうだ、驚いたか?」と言わんばかりに狩猟民族のシャーマン(?)と思しき人が洞くつに描いた壁画の写真を見せてくれたのである。
 これを見た時の驚きと感動は今でも鮮明に脳裏に焼きついている。 それは稲妻に打たれた時のような大きなショックで、感動電流が体中を駆け巡り体がぶるぶる震えるような経験だった。
 なぜ彼らが描いた壁画がこれほどまでに私の心を打ったのか? それは遥か昔、至高の境地に達したシャーマンが祈りを込めて描いたであろう壁画からは、目には見えないが人間の心の深奥にまで届く何かがあることを実感し、同時に、この壁画を超える作品は現代のいかなる芸術家の力を以ってしても遠く及ばないと思ったからだ。 そして30年以上たった今でも、その感動は私の中で燃え尽きることなくくすぶり続けている。

話は少し横道に反れるが・・・
 今から2500年前に世界中でほぼ同時に、ブッダや孔子、プラトンなどの偉人が出現し、大きな意識改革が起こった。 彼らは時代の要請に従って生まれるべくして生れ、そして時代の求めに応じ成すべきことをなしてこの世を去っている。 そして、後には沢山の弟子達がその思いを引き継いで今日に至っている。
 偉人が去ってから2500年という悠久の時が流れた。
この間、我々の先祖は逞しい努力を重ね文明の利器を開発、これによって自然を制御しようと知恵を絞り、有り余るほどの物質的豊かさを手に入れてきた。 これは、一見、理性が勝利したかのように思われるが、実際には目に見えない多くの犠牲の上に築かれた砂上の楼閣のような空ろなものだった。
 我々現代人は、遥か昔のシャーマンのように神や仏を信じて生きていた人たちと違い、あまりにも人間中心主義に陥り過ぎてしまった世界に生きている。 特に、欧米の西洋的思考の中には理性を持った人間が偉く、動物や植物は人間以下のどうでも良い存在であり、これらに対しては家畜にして殺傷してもかまわないといった傲慢極まりない人間の危うさや脆さが透けて見える。
 その結果、人間の本能は暴走を続け、雪だるま式に巨大となった我欲はさらに膨張し続けている。 もはや、この凶暴化した我欲は人間の不完全な理性の力では押さえ込めない状況に陥っており、人類は消滅に向かってアクセル全開で突き進んでいるように見える。
 今でも想定外といった制御不能な問題が次から次へと勃発しており、我々の心を不安の渦巻く大海に投げ込もうとしている。 これから先も心配の種は尽きそうもない。

ここで話を元に戻したい。
 我々の先祖である縄文人を始め、アルタミラやラスコーの壁画を描いた人たちはともに狩猟民族だった。 彼らは、部族に恵みを与えてくれる自然や動植物に対し、常に畏敬の念をもって接していた。 彼らの意識にはアニミズムの考え方が強く働いており、山や巨石、そして大木などを神として崇めていたのだろう。
 彼らの心は我々現代人とは比べようも無いほど純粋で強いものだったはずである。 そして、そこには神道と仏教が混合した山川草木悉皆成仏の世界を感じる。 人間だけが特別の存在ではなく、山や川そして草や木も我々も全てのものが神の姿であると。
 意識することなく、自然体で神が発する言葉を聴き取れる純真な心があるからこそ、命が燃え盛るような生命力溢れる縄文土器を生み出し、そして祈りと思われるような広大で深遠な世界を描いたアルタミラやラスコーの壁画を出現させたのであろう。 無私の世界から生れたこれらのものは、現代人が逆立ちしても遠く及ばない遥かな高みに到達した神からの贈り物である。
 我々人間は、山川草木と同等であるとともに、それらのものに生かされている存在であると思う謙虚さを失ってしまった哀れな失格者である。 そんな出来損ないの人類に未来への道は開かれているのだろうか?

 そろそろ我々は、この行き詰まってしまった世界にもう一度大きな意識改革を起こしたいものである。 長い年月をかけて失ってきたものを取り戻すには、同じくらいの長い年月が必要なのかもしれない。
 もう一度赤子のような純真な心を取り戻し、心穏やかに生きてみたいと思う。
その答えは裏山にあるのかも知れない。

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