奥 の 院
毎朝5時に起き、大好きな裏山に登り、霊石の上で座禅を組みながら日の出を向かえ、お経を唱えるのが私の日課である。
裏山に籠もる2時間あまりの時は、私にとって1日の始まりを示す最も大切な儀式であり、この上なく豊かで至福な空間となっている。
特に、まだ薄暗い早朝の時間帯は空気の色や音、体に感ずる霊気等を存分に享受でき、あの世とのジョイントを司る五感そのものを冴え渡らせる。

朝という字を分解して、最組み合わせをしてみると十月十日となり、これは出産を意味しているとも取れる。
朝は1日の始まりとして最も大事な時間帯であり、この出産にどのように向き合っていくかで、今日一日の充足感が変わってくる。

一日一日が人間の一生とまったく同じで、朝に出産し夜に死を迎え、また翌朝再生し生まれ変わることを繰り返している。それ程一日は大事だと思う。

また、朝日が昇ってからの1時間が人間の体や精神にとって大変に良い効果があるということも昔から言い伝えられてきているようである。

そんなわけで、標高300メートルの裏山は、私にとって最も大切な「奥の院」であり、宇宙の生命を生み出す子宮そのものなのである。
私が毎日座禅を組む頂上付近の霊石は、あの世の入り口であり、ここで座禅を組むことによって、あの世の入り口からもう少し奥のほうの空間にわが身を置くことができるように感ずる。

私は毎日ここから生れ出て、一日をより豊かに生き、そして夜に死ぬ。
「宇宙の生命に生かされている我、世のため人のため誠をつくさん」

人間は誰でも欲望の渦巻く泥沼の競争社会から離れて、わが身を静かな聖地に置いてみることが必要である。
そのための「居場所」と「時間」をもう少し持つように努めたほうが良いと思う。
寂静の世界を持った人は、その場所で宇宙の生命と一つになることによって、計り知れない生命エネルギーを体内に取り込むことができる。

そのような生活を続けることによって、今まで見えなかったものがはっきりと見えるようになる。


本当に不思議なことだが、自然の山々にはお隠れになっている神様が沢山おり、その神様を発見する喜びは到底言葉では表すことができない何とも言えない心地よいものである。

この豊かな時間は、どんな人たちにも平等に与えられているものであるが、その豊かな時間をどのように活かしていくかは一人一人まったく違うと思う。
しかし、ゆたかな時間を手に入れるためには「洞くつを持つ」ことが絶対に必要だと思う。
人間「広場だけ」で生きていたのではカタワになってしまう。

私たち3人はかなり裕福な「時持ち」である。お金は生きていくのに必要な程度しか保有していないが、将来はまったく心配していない。
何もない終戦後に生れ生きてきた貴重な体験が大きな財産となっているからである。

今の社会は、あの頃と比べるとものが過剰にあふれ、あらゆる面で豊か過ぎて、自分自身が成長できない環境におかれている。
我々の世代はジャングルの中で育った世代だが、今の若い人たちは生まれた時から動物園で過保護に育っているようなものかもしれない。
当然、ジャングルというサバイバルの環境では生きていけない。

人間は逆境で伸びる。ぬるま湯では本当の生きる能力は育たない。

ぬるま湯の動物園で生きてきた人たちは、逆境に打ち勝って欲しい。その中から本当の自分が芽を出すはずだから。自分を信じて。

また、サバイバルな世界で命がけで生きている人たちは、たまには地位、名誉、富から離れて寂静の世界を体験してみることも必要ではないだろうか。


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