「色と匂いと音楽と」

第1章 樹の誘い
第1節 大木のある借家

 休日の朝だというのに騒がしい空砲が数発打ちあがって目が覚めた。瞬かせて時計を覗くともう定刻を過ぎている。朝日は高く昇りガラス越しから日差しが枕元ににじり寄っている。まだ暁を覚えぬ時節でもあろうに首筋にジトッと寝汗が浮かんでいる不快感。今日は特別授業が有るんだったと寝癖によじれたふけの落ちる頭をかきながら床から這い出した。起き上がって間もなくまた数発の空砲。何か催し物でもあるのかと廊下に出てひさしの下から音のする方を俯き加減で覗く。しょぼついた目は建屋と巨木の隙間のわずかに見える青い空に注がれるが、はなから見つけられる筈がないと言っている風だ。人を驚かせるせっかちな癇癪玉はある種の郷愁と懐かしさを運んで来る。全く予期せぬ場合などは無性に煩いだけで腹立たしくさえ感じるが、意識下に用意でもあれば空砲を合図に僅かな小遣いを握り締め出店を練り歩く子供たちを見つけられる。見上げるほどに連なった階段の先には、幟がはためき右往左往の人出は鎮守様もきっと驚いていたに違いない。年に数度の空砲ではあった。今では何かしら催事の度に打ち上げられ興ざめし、無頓着に過ぎていくことが多くなっている。
 他の部屋の住人達は珍しく朝早く遊びに出かけ村上しか残ってはいなかった。普段であれば休日の4部屋は正午近くまで障子にはめ込まれたガラス越しに敷布団の裾が見えているが、今日に限って気息を合わせたように隅に折りたたまれ小ざっぱりしている。細長い部屋を4つに仕切るその前に幅三尺ほどの廊下が家の玄関口まで続き、雨戸は既に開け放たれ暑い日差しが歩く足の裏にまでしみこんでくる。玄関口から一番奥が、住人たちの中では最も静かな所に位置する最古参の特権を持っている。とは言っても近接して土壁数枚が、障子十数枚分に静かも煩いも無く、ただ奥に引っ込んでいるだけでは有った。部屋に戻ると廊下の反対側の、後から取って付けたようにこぢんまりとした洗面台に顔を押し込みバシャバシャと洗う。水しぶきは部屋に散らかる書物も、脱ぎ捨て或いは掛けられた衣類にも遠慮なくかかるが頓着しない。6畳ほどの空間は参考書やらテスト紙等の教材が占拠して、よくもまあ寝る場所が確保できるとさえ思わせている。壁に掛けられ皺の寄った私服に着替えると教材を抱え誰もいない共同アパートを出て行く。アパートから目と鼻の先に借りた駐車場には、通勤から開放され照りつける日差しの中に数台の車両。敷地の周りには数本の大イチョウの木が留められた車両に光の明暗を分け静まり返っている。入り口付近の大分くたびれ色あせたグレー車は何時止まっても不思議は無い、何時盗まれても文句の付けようもない風体で置かれている。不器用にキーを差込むとドアを開け乗り込んだ。
 彼の住む居所が町の外れでもあり、又、道路は休日の朝ということもあり人通りなど皆無であった。古びた家並みと狭い路地は昔から何ら変わることも無く、樹齢を重ねる樹木だけがこの地の歴史を刻んでいるように思える。
 前に勤めていた会社が倒産の憂き目に会い、仕方なく私学の教師にでもと転職してもう数年が経つ。働く先は何処でも良かった。持っている資格を頼りに、取り敢えず働かなければという思いから、適当に選択しただけであった。気分一新にと場所も変えた。何処でも良かったが何となく鄙びて居心地のよさそうに思えた此処へ移り住んできた。誰も見知った人もいない自由な居所に。家賃と相談の上、不動産屋に案内されたこの場所は、余りにも古い建屋に初めはしり込みしていたが、母屋の入り口にうっそうと茂る欅の大木が妙に気に入り眺めているうち、『人が住むのは家じゃない、場所だよ。』と、言われた気がして何となく決めてしまっていた。軽い感じの不動産屋の親爺は、
「何処でも住めば都、この家賃じゃ上出来だよ」
軽率そうに笑いながら村上を胡散臭い目で見回し、一目散に大家のところへ案内するや、さっさと契約書を作り上げていた。贅沢を言える身分でもなく、また分相応にも思えた。ただ、さして気にはならなかったが、何となく引っかかるものがあった。彼にとってさほど重大なことではなかったのか、それが何なのか今でも漠然としていて答えを見つけられないでいる。
 車内は大気が身動きもとれず日光に曝されムッとしていた。窓を開けながら何気なく空を見上げると、打ちあがった空砲の白煙が幾つか見え、続いて音が鳴り響いた。村上はふと今日が祭りの初日であることに気が付いた。そう言えば通勤時の沿道にはささやかな提灯やくたびれ使い古された幟が、毎年の行事を致し方ないという風に立っていた事を思い出した。若い力は遠方へ嫁ぎ或いは職を求め今では昔に比べ随分寂しくなったと大家が嘆いていた。祭りも活気が薄れ、若者が去っていくたびに何時取りやめになるか分からず、昔を懐かしむ老人達には隔世の淋しさがあるようだった。
さび付いたエンジン音は砂利道から這い出し舗装道に乗りかかると、ようやくといった感じで唸り出す。緩い下り坂を鈍足が走り、狭い路地を幾つか潜り抜けると商店街に出る。この町では目抜き通りとも言われるやっとすれ違うことの出来る車線に休日の対向車はない。軒を並べて商う店も祭りに協賛してはいようが未だ店は閉まったままだ。中にはほんの少し間口を開け前の歩道路に水をやり掃き掃除に精を出している老婦人も見える。外からでは推し量れない静かで重い朝が目の前を過ぎていく。目抜き通りを左に折れ、広がった街路に植えられた並木を右手に見ながら、
「この葉っぱは見通しを悪くしているだけなんじゃないか」
「何処に心地よさが有るんだろう」
と、村上を何時も嘆かせている。勤める私学はこの先一本道を突き当たった所にあるが、途中に目を引く娯楽施設もなければこれといった建物も見られない。強いてあげれば小さな地域にしては大きく広い公園ぐらいのものである。運動遊具も一通り揃ってはいても、取り合い、はしゃぎ合う子供達を見かけたことはない。砂地の見える広場の周囲を樫や椎、欅の大木が取り囲む小さな憩いの森は、彼にとって至って静寂が有るだけのように思えた。見えてきた斜め前方の公園に視線を向けると珍しくベンチに子供らしき姿があった。口を半分ほど開け、手をひざに組み首を傾げ樹上に開けた大空を見つめている。だらしなく黒っぽいTシャツに半ズボンを穿いた男の子は見るからに異様に写った。木陰に見え隠れするうち公園は遠ざかり男の子は小さな森に消えていった。さほど気に留めることでもなかったが、妙に大木と少年の取り合わせが自然に思え不思議な気分をかき立てさせられた。取り立てて印象深く考えた訳でもないのにタイヤの溝に挟まった小石のように何時までも鳴り続けた。気が付くと目の前に4階建ての校舎が見えている。磨り減ったブレーキシューは聞き苦しい金属音を響かせ校門に吸い込まれていった。

第2節 不意の友人

 久しぶりの休日を珍しく喧騒と雑踏でごった返す街中に立っている。何処を見回してもコンクリートジャングルの外壁や高架橋が視界を隔て、慌ただしく行き交う車や通行人も一心不乱に進む様は、見えない外敵を警戒し身構え関わりさえ否定してでもいる。が、実際に困り事や尋ね事があれば強張った表情は失せ、打って変わり田舎者にも判る導を提供してくれる。華やかで忙しい此処は何時もそういうところなのかと思わせられている。珍しくとは言っても村上には記憶もないほど稀ではあったが、地方に住む学友から「仕事で此処に来ている間に会いに来い」と半ば強制的な誘いを受け滅多に足を運ぶことのなかった都会に来ていた。昔からの性分で約束時刻には十分すぎるほど時間を余し、することもなく手持ち無沙汰に雑誌を読んでいるか、ビル群に飾られ掲げられた看板やら表札に目をやり、
「ここにこんな会社があったんだ」とか、「あのチェーン店は田舎でもよく見かける有名店だったのか」とか言いながらぼんやり眺めている位が関の山で、これといった目的意識があるわけでもなかった。ただ、「遅れてすまん」と言いたくないだけなのかも知れなかった。声を掛けさえしなければ能面を外す事も無く入れ替わり立ち代り役者は素通りしていく。時には談笑しながら満面一杯にこの世の幸せを独り占めしている若いグループや、羨ましいほどの似合いのカップルもゆったりと通り過ぎていく。
村上は立っているのも嫌になり待ち合わせの喫茶店に入りかかる。と、後ろから聞き覚えの或る声がした。
「おう、久しぶり。元気そうだな」
眉の濃い、彫りの深い南方系の浅黒い顔立ちは否応なく精悍さを押し付けてくる。が、男でもあろうに瞳は輝き、人懐こい笑みは誰一人として対峙する敵などいるはずが無いと思わせている。笑い顔からは合気道の武者だとは誰も想像出来ないに違いない。
「兎に角中に入ろう。こんな入り口では話も出来まい」
両手で握った手を離すと村上の前に入れ替わり扉の中に入っていく。学生時分思想の影響を強く受け政治活動やら学生運動に傾注したことが、誰とでも握手をしたがる要因になっているようだった。性癖とでも言うべき仕草はあの頃の若かりし活発なスポーツマンを今に彷彿とさせている。
明るい雰囲気に洒落た装いを施す店内をどんどん奥へ進んでいくと、一つだけ予約席の札が立っている。素早く回りこんで着座した風圧が、カットグラスに入った意味の無いキャンドルライトを揺らし、それが呼び鈴のようにウエイトレスを招いた。
「ご注文は何になさいます?」
学友に視線を向け何がそんなに嬉しいのかと聞きたいほどにこやかに話しかけている。
「そうだな。何時ものやつでいいや。二つ頼むよ」
二枚目の落ち着いたトーンは羨ましいばかりに響いてくる。ウエイトレスは軽く会釈をすると予約席の札と共に下がっていった。
「暫らく前からこの近くの現場を担当しているんだ」
「あと少しで竣工するが、終わったら直ぐ帰らなけりゃならん」「帰る前にお前にだけは会いたいと思い、連絡したんだが迷惑だったか」
上着を脱ぎながら学友はさも意味ありげに村上を見下ろした。
「田代、よく俺のいるところが分かったな。誰にも知らせたことは無かった筈だが」
村上にしてみると、わざわざ呼んでくれたことは嬉しかったが、周囲に埋没し自分の気配さえ消してしまいたいと思っていたことが、いとも簡単に居所を突き止められた不都合に当惑を隠せなかった。
「何、簡単なことさ。今流行の便利屋に住民票を辿ってもらっただけだ」
「お前、相変わらずだな。何が楽しくて生きているのか俺には理解できん」「その表情は何とかならないのかね」
村上にとって田代の言葉は精一杯の歓迎を意味し、親しみを込めたものであることに疑う余地は無かったが、長い空白期間を埋めるこれといった話を持ち出せず彼の笑顔を見つめるばかりだった。
「学生時分、お前には色々と世話になった」「詰まらんいざこざの仲裁やら酔っ払って管を巻いている俺を宥め介抱してくれた事等、大分迷惑を掛けたものだ」「若い時分とは言え、今考えれば随分危ない橋も渡ってきた」「もうそんな気力は薄れてきたよ」
田代の話は何処かにきっかけを求めているように思えた。
「昔の事はシャバの荒波に攫われた。振り返ったところで碌な思い出しか帰ってこない」
「想い出話しに花を咲かせるほど歳を食っちゃいない」
「それより、結婚しているんだろう。子供はもう大きくなったのか。何人いるんだ」
村上も仕方なく流れに追随しようとしてか、それほど気を入れて聞いている様子はなかった。
「そう言えば、俺が失恋して荒れている時、お前が慰めてくれたよな」「あの時は本当に辛かった。死にたかったよ」「お前はあいつだけが女じゃないと何遍も俺を窘めた」「知りもしないあいつの悪行を並べ立てこき下ろし、嫌いな酒にまで付き合ってくれた」「だが、人生ってのは不思議なもんだ。それから数年経った或る日、偶然にも、公共建築現場の打ち合わせに彼女が来ていたんだ」「もう子供は3人もいる。上は中学生だ」
嬉しそうに表情を崩すと、運ばれてきたお絞りを顔に押し当てている。間髪をいれずコーヒーと甘味が合い向かいに置かれる。
「ここのプリンアラモードは結構いけるぞ。コーヒーにぴったりだ」
「甘党のお前にも文句がある筈も無い」
言っている傍からもう田代の手も眼も口も甘味に近づいている。
性格は何年経っても変わらないものだとつくづく感じられた。あの頃は暇に飽かせては一室に何人もが夜っぴて持論を展開し、結論も出ないまま翌日に持ち越しては夜を迎えていた。今考えても何の話題だったかさえ思い返せない。ただ寄り集まって飯を食らい、酒を浴び、同類の連帯感を確認し群れていただけなのかもしれなかった。心地良い群れの話は際限なく、女の話に始まり政治、経済、スポーツ、アート、果ては或る住人の部屋に出る自縛霊とも浮遊霊ともつかぬ恐怖の体験話にまで及んだものだ。忘れていた『群れる心地よさ』は、何処に行ったのか今となっては考える気にさえならなかったが、村上は目の前の彼奴といると構える気にはなれなかった。
コーヒーを飲み甘味を口に運びながら互いに今までの出来事を話し出していた。長い間閉じていた灰褐色の鎧戸は懐かしい光を浴び久々に明かりが射している。
「なあ、お前の話はこれじゃないんだろう。そろそろ本題に入ったらどうだい」 「呼び出しといて言わない気か」「別に俺はどっちでもいいんだが」
村上はここに来る前から、彼が会いたいと言う理由を考えていたが、どうにも納得の行く結論を見出せないでいた。
「お前は昔から妙な直観力というか観察力はあったよな」「とんでもない発想は皆の顰蹙ものだったが。そいつは今も健在って事か」
「最も工学系だろうが、哲学や芸術をたしなむ奴はいくらでもいた」
真面目くさった面持ちで村上を見据え、思い出したように脱いだ上着を探り一枚の写真を取り出すと、
「お前が未だ独り身だということが良く分かった」
「この人は俺の知り合いなんだが、なかなかの美人だし才女でもある」
「年は俺達より少し若いがしっかりした考えも持っている」
「決してマイナスにはならない。俺が保障する」
「ただ、バツ一なのが名誉ある勲章でもあり悲しい履歴でもある」
豆鉄砲を食った表情が残る村上の前に差し出した。
「先方が依頼しているわけじゃないんだ」「俺が勝手に進めているだけだ」 「双方がよけりゃそれが一番いいんだが」
その目は真剣そのものに見えた。立て続けにその女性の生い立ちやら悲しい履歴やらをまくし立て、時には優しさに心弾ませ宙を舞うがごとく、或いは静かに耐え忍ぶ力強さを誇張し力説している。
じっと聞いていたが、田代の真意が何処にあるのかを推し量ることよりも、今更何故結婚話など聞かされなくてはならないのかが、村上には不自然に思えた。
「何故俺にそんな話を持ちかける。他にいい相手はいくらでもいるだろうに」 「今の俺にそんな余裕は無いよ」
何時の間にか、村上の表情は以前に戻っている。
「俺は決して押し付けようと思って話を出したわけじゃない」
「彼女はお前の夢を実現させるには最適な人だと思うからさ」
「お前も話してみればきっと納得すると思うんだが」
「今、決めてくれなんて言わないよ。少し考えてみてはどうだい」
「細かい話は追々していくつもりだ」
田代は薄笑いを浮かべ冷めたコーヒーを飲み干した。
時を合わせたように騒々しく2,3人が店に入ってくると、まっしぐらにこちらを目指し歩み寄ってくる。村上が顔を向けると、
「よう、久しぶり。懐かしいな」
挙って歩み寄った連中は村上に手を上げ、ことごとくが彼の肩を叩きながらテーブルに陣取った。
「時間通りだろう。我々の日常には寸分の狂いも無い」
一人が田代に向かって親指を突き出す。田代はテーブル越しに例の如く来た者夫々に握手を求めている。
見れば厳つい連中に昔の面影が連れ添い、懐かしさを思い出させた。
「何だ、これは田代の計画的犯行だったのか」
「今日は最良なのか、それとも最悪なのか誰に聞けばいいんだい」
村上はこの連中が席に着くに及び、初めて田代が仕組んだ有志の同窓会と分かり嬉しく感じた。増えた仲間は話題を3倍にも4倍にも膨らませ、過去や現在を疾風の如く飛び回らせた。夕暮れが近づくと居酒屋へ繰り出し、尽きない話は終電にまで及び、村上にとって久々に群れて心地のいい一日が過ぎて行った。

第3節 公園と子供

 気が付くと僅かな期間の祭りはとうに過ぎ、少しばかりの賑わいは瞬時に消滅し記憶に残る余韻さえ響いてこない。過去には祭りに対する思い入れや楽しみ方が色々有ったと思われるが、今はさっぱり気後れし意を同調させ町内の隣人達と共に居ることは本当に稀なことになった。期間中街路の通行さえままならぬ規制も解除され、提灯や、幟など跡形も無く片付けられ、ここでそんな行事があったとは到底思えない程静まり返っている。村上がここを気に入っている一つは飾り立て賑やかに吹く風よりも、何処を見回しても目に焼き付きその懐に抱かれていると感じられる巨木が傍にあるからであった。人との付き合いよりも触れていたい自然が、ここには何処にでも溢れ目にすることが出来るからに違いなかった。
学校を卒業し社会人となり仕事以外に目を向けられないでいた時期から、次第に人との付き合いは薄れ拒否するようになっていった自分に気付いたのは、それほど以前でもなく最近のようにも感じられた。
「お早う。お前は相変わらず逞しいな」
「お前は着実にそれも確実に生きている。羨ましいよ」
母屋の前に聳え立つ欅の巨木を見上げてはその幹を叩き、声を掛ける。このところの日課にもなり出かける前の欠かさぬ挨拶でもあった。
慣れた通勤道路は目抜き通りを曲がり街路樹に差し掛かかれば、後は一本道を進むだけで否応無く終着点を迎える。道路が混んでいなければ、気になる所要時間ではなかった。並木が途切れ右手に小さな森の中の公園が見えてくる。近づくに連れ、つい先日見たあの子が、ベンチに座り空を見上げている姿があった。服装も以前と同じ黒っぽいTシャツを着て樹木の隙間から見える青い空を覗いているように思える。坊主頭は微動もせずひたすら上を向いている。村上は車の窓を開け上空に眼を移すが、これといった浮遊物体を見つけられない。ジェット機が発する飛行音も軽飛行機の宣伝文句も聞こえて来ない。一体あの子には何が見えるのか、何を見つめているのか、或いは何を聞いているのか、村上は無性に知りたくなった。
「今日の授業は午前中だけで午後は空きだったな」
「午後はあの子に会いに行くか」
村上は遠のく森をルームミラーで睨み独り言を呟いた。
 午前中の授業が終わると質問にやってくる女生徒達を体裁のいい理由をつけ振り払い、慌ただしく公園へ向かう。朝からこの時刻までいるとは思えなかったが、付近の住人にでも聞けば居所は知れる。訪ねてみるのもいいものだと何故か気分を浮き立たせていた。
 このところ妙に村上の身の回りが騒がしくなっている。ある日何時ものように教室に入っていくと今までとは変わった雰囲気に包まれていた。席に並んでいる女生徒の目元がやけに初々しい。初めは気の性とでも考えていたが、付きまとう視線が物珍しそうに絶えず追ってくる。眼を合わせようとすると視線を逸らし又戻ってくる。耐え切れず傍へ寄って行って
「俺の体に何か付いてでもいるのか」
村上にしては授業中の不謹慎を咎めていなすつもりであったが、女生徒は 「フフッ」と笑い俯くだけであった。
「なんだか知らんがお前達、今日は少し変だぞ」
「よりによって集団で中年をからかうんじゃないぞ」
その場は失笑が渦巻き他愛ない和んだ雰囲気に満たされていた。
しかし、これがこんな状況が今も続いている。その日の夕刻には随分前に県へ申し込んでおいた教員の採用試験に合格したと通知が届いたり、その次の日には知らせてもいない遠方で食品事業を営む母方の叔父から、
「そんな所で何時までも独身貴族はないだろう。俺のところで修行しろ。いずれ何とかしてやる」
と、苦言とも稀に見る暖かい励ましとも取れる連絡が入ったりと村上を驚かせていた。その度に下手な理由をひねり出しては丁重に辞退していた。彼にとっては吉報でもあったが、今どうしてもそうしなければならない理由は見当たらなかった。この住処から動きたくないと思う感傷のほうが強く働いていたのだ。更にはあの田代の誘いである。流石に、これには村上も断りきれず出かけてきたばかりであった。今まで長い間疎遠であったことが、たまたま一気に重なっただけなのか、謀り知る術もないが妙に心を浮き立たせる日々が続いている。 公園の周りには駐車場と遊歩道が通いなれた道路の反対側に整備され草地がその間を埋め、広々とした駐車場は他に車の影さえ無く、閑散とした午後の日差しがゆったり時を過ごしている。ガタガタと煩い車を駐車場の端へ止め子供が座っているはずの公園の中を透かし見る。が、薄暗い樹木の奥に誰一人動く気配さえ感じられない。矢張り子供は既に帰ってしまったのだろうと思いつつも、足を踏み入れたことも無い園内に興味が沸いてきた。
「たまには公園の散策もいいだろう」
「しかし、人が見たら怪しい奴がただうろついている風にしか見えないだろうな」
苦笑しながら車から降りて歩き出す。草の匂いとも花の香りともつかぬ雰囲気が漂っている。駐車場から遊歩道を横切る目の前に、園を取り巻く巨木が立ち並び、雄大な息吹が伝わって来る。木々は昔からここに育ち成長してきたとしか思えなかった。恐らくこの周りにもたくさんの樹木が生い茂っていたに違いない。全てを伐採せず小さな森として公園に形を変え存続させているように思えた。園の敷地は小高く盛り上がり、所々に丸太を組んだ階段が数段備えられ薮に消えている。身近に有る階段を上り詰めると、林立する樹木やつたの絡まる広葉樹が目に飛び込んできた。狭からず広すぎず道路に沿って楕円形をした森の中はまるで別世界の趣さえ感じられた。緩やかにうねる小道と木々との遠近感は奥深い霊山のようにも、高く聳え立つ樹林は迷い込んだ深山にも似た錯覚に捕らわれた。園の周りに沿って巨木の立ち並ぶ小道を進んでいくと、木々が幾重にも交差する中央に、開けた空間らしき明かりが見える。村上は小道を外れると明かり目指してがさがさと藪を掻き分け進んで行った。進むに連れ、こんなにも深く厚みの有る公園だったとは想像すら出来なかった。ようやく中程の赤茶けた土が見えてくるとそこは意外なほどに広い空間が待ち構えていた。サークルストーンのように円柱状の石が土の上に突き出し赤土と薮との境界を作り、その前にベンチが向かい合わせに置かれている。子供はもういるはずが無いと先入観念が働いていた。子供ならこんな時間まで一人でいる理由も無いと。しかも同じ姿勢で長時間いられるわけが無いだろうと。
ベンチを遮る大木が村上の視界からそれた途端、薮を掻き分ける音は静寂に飲み込まれ立ちすくみ、前方を凝視するばかりだった。会ってみたい好奇心は驚きと懐疑心が入り混じり村上の胸を異様なまでに高鳴らせた。目の当たりにした子供は、坊主頭を傾げ口からよだれを流し、樹上に開けた空を見つめている。顔は土と垢にまみれて薄汚れ、肩からは力が抜け両手をベンチに投げ下ろし、今にも前のめりに倒れこみそうに思えた。夕暮れであれば恐怖心までも沸き起こるに違いなかった。物音一つしない森の中に立ち竦んだまま身動きすらとれず、その子を見つめ続けていたが、突如樹上で騒ぐ木の葉の音に村上は我に返った。気を取り直し、静かに薮を掻き分け丸く土俵を形作っている赤土に足を踏み入れる。子供はまだ身動き一つせず天空を見上げ続けている。何時しか村上はその中央に佇むと子供が見つめる大空に視線を合わせていた。透き通った空に見えるものは何も無く微かな音さえ聞こえない。ただ、見上げている内に意識が遠のいていく妙な気分に曝されていった。重力から開放され自己の存在すら見失いそうにフワフワと呆然として。どの位経ったのか、頭を下げ地面に視線を移すと赤土の色は既に無く、足首まで浸かる碧い湖が目に飛び込んできた。足首の周りには波紋が広がり履いている靴がゆらゆらと歪んで見えている。不思議な気分は錯覚を疑いも無く捨て去り見ている事物を信じ込んででもいる。そろそろと屈んで足元の清らかな水を掬って見る。が、冷たさも零れ落ちる感触も無い。はっきりその眼に湖水の青々とした色が見えているのに。ゆっくり立ち上がると、湖水から目を逸らし、巨木の幹を這い上がり樹上の木の葉を追いかけて、その先の開けた青い空に視線を移していく。と、急に体中に錘がぶら下がる感覚が襲い、立っていられなくなった。両手を着きながらその場にストンと腰を落とす。しりもちをついた痛さより赤茶けた土の色は、視覚を鋭敏に研ぎ澄まし引き戻された次元を再認識でもしている。咄嗟に自分でも機敏と思うほど素早く起き上がるとズボンの泥を払い、子供が見上げるベンチに腰を並べていた。近づいて良くみると子供の着衣は薄汚れ所々に綻びが目に付く。弛緩した頬のゆるみとは裏腹に眼はキラキラと輝き一心に空を見つめている。この不思議な場所で子供の眼に映る、村上には見えない世界がどんなものか想像すると楽しくなって来る。思い切って子供に声を掛けてみた。
「空に何が見えるんだい」
「おじさんに君が見えるものを教えてくれないか」
優しく問いかけたつもりが、頬が引きつり上ずった声は村上を苦笑させた。 見向きもせず聞こえた風も無く首を傾げている。村上は子供の素顔が見たくなり、授業中に女生徒に無理矢理渡された、濡れたティッシュをポケットから取り出すと、そっと子供の顔を拭いよだれを拭き取ってやる。汚れにくすんで見えた顔は飽くまでも幼くあどけなさに満ちた柔らかい顔が現れていった。首筋から手足に至るまで有ったティッシュは底を尽き、ハンカチまでもが動員され忙しなく動く。
「おじさんは人の世話なんかしたことが無い。これくらいで勘弁しろ」
「少しは身奇麗になったぞ」
そこら中に散らばったティッシュを拾い集めながら、又ベンチに腰を掛ける。
「君にはきっと素晴らしいものが見えているんだろうな」
空を仰ぎ嬉しそうに呟いた。
「何処から来たのかな」
「君の名前くらいは知りたいんだが、どうせ教えてはくれないだろうな」
顔を覗きどんな答えが返ってくるのか待ち遠しい時間が過ぎていった。だが、子供は村上の存在すら否定している風に上空を見続けている。
返事に期待出来ないと腰を上げかかったその時、
「あー、あー」
突然子供が村上のほうに顔を向け、体に触れようと手を差し延べてきた。その眼は何者をも無抵抗に、如何なる過酷な環境下にあっても平静を強要し、従うことが当然のごとく示唆しているかのように思われた。妄想は吹き飛び苦い現実を突きつけられた気がした。この子は単なる少し知恵遅れの子供ではないのか。誰にも相手にされず一人で遊ぶ孤独な少年ではなかったのか。村上の鼓動は大きく波打ち、全身に電流が走ったように感じられた。しかし、もう子供は差し延べた手を翻して空を指し、「うー」と唸っている。既にあの気迫に溢れ威圧する眼はなかった。キラキラしたその奥には、深遠で何処までも膨大に広がっていく遥かな空間が見えていた。余りに急速、余りに唐突な時間。修復する暇など与えられず、立ち眩む目眩さえ覚えた。暫らく目を閉じ、再度子供を覗いたときには、何処にでもいる言葉の遅れた少年が村上の前に座っていた。
「君の名前はアーちゃん、て、言うのか。」 「おじさんは村上って言うんだ。覚えられるかな」
「何時もここに来ているのかい。何を見ているんだろう」
気持ちを入れ替え一つ一つ噛み砕いてゆっくり話をしている。
子供は一々頷いては「あー」を繰り返し、落ち着きの無い素振りを見せ、あの子は一体何処へ姿を消したのかと見間違うほどであった。それにしても今いるこの場所からでは、車道は木立に隠れ殆んど見えないにも拘らず、車道を走る村上に見えたという事はどういうことなのか。双方向で見えなくとも一方向で見えること等あるのだろうか。不可解で疑問符の多い此処が何故噂にもなっていないのか村上には理解しがたいことに思えた。
「あーちゃんのお家はどっちの方にあるんだい」
多分答えられないだろうことは想像に難くないと感じていた。しかし、子供は間髪入れずにある方向を指差し、顔を向けると白い歯をむき出しにして、「いー」と笑いながら答えた。指差した方向が正確かは定かではないが、その方角は村上の住む方向でもあった。計り知れない正と負の意外な面が交錯する。
「お母さんと一緒に住んでいるの。兄弟はいるかい。ここには楽しいことが一杯あるね」
接することも無い子供との会話は一方通行のようでもあったが、何か癒され暖かな心地が染み渡ってきた。話も途絶え、暫らくすると子供は立ち上がり歩き出している。
「帰るなら送っていくよ」
村上が声を掛けると、振り返りながらまたもや「あー」を繰り返しニッと笑い駆け出していく。あの子はあんなにも早く走れるんだ、と嬉しく見つめている間に巨木の陰が子供の姿を隠していた。

第2章 色々な事象
第1節 異変その1(職場)

 「何故ここを立ち退かなければならんのだ」
「勝手なことばかり言うんじゃない」
「私共は昔からここでこの仕事をしてきた。子供達の教育を推進し、地域のために尽力もしてきた」「それを行政の都合で立ち退けとはどういうことだ」
激高する剣幕が職員室にまで響いてくる。理事長が大声を上げる時は決まって大勢の教員や事務職員が近くにいることが多かった。嫌,たまたまタイミングが上手い具合に合致していたのかもしれなかった。居合わせた人がトバッチリを被る時もあれば、タナボタの情報にニンマリする時もある。 「今日は運の悪い日かも知れないわね」
村上の隣席に長く国語の教鞭をとる女教師は、声のする理事長室に顔を向けている。村上は事の次第など全く分からず女教師に話しかけた。
「一体何のことですか」
彼女は振り向くと
「私も詳しい話は知らないけれど、この学校の後ろに道路が建設されるらしいのよ」
「ここがT字路になっているため交通渋滞が解消されない。というのが市役所の言い分らしいわ」「でも、本音はこの学校の東側に住宅開発をして、広い道路を通したいから移転しろといっているようなものよ」
「この話はもう暫らく前から燻っていたんだけど遂に動き出したって訳」
「理事長一族は代々この地に生まれ育ち愛着があるから移転はしない、と突っぱねてきたけれど、開発業者もそう言いなりになってばかりはいられず、行政をテコに圧力行使に出たというのが実態じゃないのかしら」
村上はこの女教師をまじまじと見つめた。世情に疎く世渡りはからっきし下手なことくらい自認している。
「先生は色々な事を良くご存知ですね」
感心する村上の言に女教師は顎を突き出し、
「村上さん、数式に数値を入れて結論を求める事は誰でもやるでしょ」「それと同じ。私たち社会の不文律にも公式や公理はあるものよ。条件を入れさえすれば自ずと解答らしきものは見えてくる」
「それほど驚くことかしら」
至って平然と答える女教師を見ていた村上の眼に、一瞬ではあったが眩しい白色光が飛び込んできた。と同時に高音域に鉄琴を打ち鳴らすが如くウインベルが軽やかに鳴り響くが如く耳元が騒然となった。光は彼女の体の中から抜け出し、形を成したまま真っ直ぐに天井を貫き消えていった。眼を皿のようにして天井を見上げている。周りの同僚を見回すも誰一人光や音に気付いた様子はない。教材を調べる者、理事長室に聞き耳を立てる者等はいても彼女に起こった異変に気付いた人はいなかった。
「村上さんどうしたんですか」
「私の話はそんなに嫌味に聞こえましたか」
女教師は話の最中に目を逸らし、周りに意識を投げかけるような姿勢が許せないとばかりに語気を強めた。
「嫌、話を聞いていた時、先生の体から真っ白な光が出て、・・・」
村上はそこで言葉を打ち切り慌てて謝罪に及んだ。
「済みません。私の悪い癖で時々フッと気が緩むことがあるんです」
「決して悪気は無いんです。気を悪くしないでください」
律儀で物事を冷静に処理する彼女の性格を思い出していた。もし村上の見た現象を話でもしたら、それこそ理詰めに追究され話をより難しいものにすると直感したからだ。それでも女教師は『失礼な人ね』と言わんばかりに村上を一瞥すると、そのまま視線を引きずり採点中のテスト紙に焦点を合わせていく。口を結び憮然と赤鉛筆を走らせ始めた。
「今俺が見た光は気のせいだったのか」「あんなに光ったのに彼女も、嫌、誰一人として気付いた風が無い」「軽やかに打ち鳴らされた音色さえ聞こえないというのか」「眼の錯覚だったのか。聴覚異常なのか」
村上は口の中でもぐもぐと呟き、女教師を横目でちらりと覗いた。彼女の目付きも真一文字に結んだ口元も未だ怒っている。頭を掻きながら済まなそうな面持ちで静かに席を立つと廊下に出て行った。洗面室でバシャバシャと顔を洗いポケットからハンカチを取り出す。正面の鏡を見ながら眼の周りに力を込めハンカチで拭う。
「どうも最近は何か変だぞ。見えないものが見えた気がする」
「今日は今日で変な音まで聞こえる」
「一種のノイローゼか」
自分の独り言に村上はハッとした。こんな言葉が自分自身をより深みに落としこむような気がしたからだ。これに反発するように、
「気のせいさ」 懲りずに独り言が洗面室に響いた。
廊下を歩き出すと理事長室から市役所の職員が数人出てくるところであった。
「私は此処を動かんからな」
理事長の声が部屋の奥から追ってくる。通りがかり、その声に引き寄せられるように村上の目は理事長に注がれ、再び眼を見張った。先ほどの女教師と同様に。だが、今度は白色光ではなく赤い光が高い輝度で放射されている。響いてくる半鐘音はけたたましく金属を連打し波紋を撒き散らす。市役所の職員は戸口で軽く会釈をするとドアを閉めそそくさと退いていった。
村上は廊下で一人呆気に取られ閉められたドアに見入っている。役所の連中にはあれが見えなかったのか。あんなに赤い光が。あの半鐘音が聞こえなかったのか。気づかない振りなど出来るはずがあるものか。しかし、誰も誰一人として騒ぎ立てない。俺にしか見えなかったのか、聞こえなかったのか。俺の頭がどうかしたのか。脳裏に自問自答している。何時になく村上の顔は青ざめ、眼は一点に突き刺さり、明快な答えを求め到達点を探してでもいるように思えた。研ぎ澄まされた鋭敏な感覚は暫らくの間時空をさ迷い、その理由を捜し求め活発に動いていた。
やがて狭い空間を目まぐるしく動き回った意識は次第に薄れ、その理由すら見つけられず廊下に佇んでいる自分に気付いた。
「先生、村上先生。ドアの中に何か見えるんですか」
見ると数人の女生徒が村上の周りを取り囲んでいる。皆、今まで知らないでいた秘密を、不思議な人をこの眼で見ましたとでも言いたそうに瞳が輝いている。村上は敢えて彼女達を凝視することは避け、中庭を望む窓に目線を合わせ、強張った体を揉み解すように両手で髪を掻き揚げると、
「なんだ、お前達、もう授業は終わったのか」
「俺に質問したいことがあるなら後にしてくれ」
「今日の俺は少し頭が壊れている」
無愛想に言い放つとその場から職員室へさっさと立ち去っていった。村上にしてみると、又、あの現象が彼女達に見えたなら、再度無用な詮索を始めなければならなくなり、混乱に歯止めが掛からなくなる恐れを抱いたからだ。しかし、その日は村上をこれ以上悩ませ考え込ませることはなかった。むしろマイナス思考は消え失せ楽しい因果を巡らせ想像を高めさせていった。授業を終え帰る頃には他に見えない、聞こえない現象がこの先何を意味するものか楽しくもありうきうきする心地が村上の心を覆っていた。しかし、この現象が何時も必ず起こることではなく、時として突然降りかかって来ることに気付いたのは、何日かが過ぎてからだった。

第2節 異変その2(隣人)

 夕刻も大分過ぎた頃、宿に着くと他の部屋の住人達が既に集まっている。村上よりも若く何時もなら夜半近くまで飲み明かし、或いは同僚と遊びまわっての深夜の帰宅が、今日に限って皆顔を揃え彼の帰宅を待ち望んでいた節があった。休日くらいしか顔を合わすことも無く、会ったとしても特段の会話があるわけではなく、極普通の他人同士がする日常の言動でしかなかった住人達が、挙って一部屋に集まっている。夫々が勤める業種はサービス業や製造業、研究所と言った相互に何ら関係を持たない者同志が意を一にして。
村上は珍しいことも有るものだ、くらいにしか考えもせず集まっている住人達を尻目に、自分の部屋に入ると明かりを点け事務用のデスクに抱えた教材を降ろす。台所と洗面室を含め6畳ほどの部屋には折りたたまれた布団、十数個のダンボールに押し込まれた教材と読みもせず積み上げられた図書が事務机の周りを占拠して足の踏み場も無い。ガタガタと椅子を引き寄せると廊下に向かい腰をかけ両手を首に回し身をそらせる。
「最近の俺はどうかなっちまったのか」「昔の俺にはこんなことなんか起こったことは無いのに。何か変だぞ」
天井を向いてぶつぶつと呟く。何が原因なのか皆目分からないとも聞き取れる。 村上が身を起こし机に向かい教材の間からテスト紙を取り出そうとしたとき、ギシギシと廊下を渡ってくる足音が近づいてきた。
「村上さん、ちょっといいですか」
障子にはめ込まれた透明なガラス越しに、この屋の住人達が履いているズボン姿が眼に止まった。寛ぐときの格好は3人3様ではあったが好みの柄は代わり映えもしない。
一人がそっと障子を開けるとその手で手招きをしている。
「村上さん、ちょっと話したいことがあるんで私の部屋へ来てもらえませんか」
住人の中では村上の次に歳を食った、或る研究所勤めの優男(やさおとこ)が小声で誘っている。
この屋の住人達は村上とは違い皆中々の好男子ぞろいである。それほど彼らを知っている訳ではないが、さぞかし女性陣にはもてるだろうと想起させられてもいる。繊細な感情の起伏にも呼応し相手の意を汲む柔軟さをも持ち合わせ、時には大胆に自己主張を展開し注目を一身に集めては話題を提供し笑わせる。そう言った雰囲気がこの住人達には少なからず有ると村上の羨望心を煽っていた。
「何か重大事でも起こったのかな」
「俺なんかじゃ相談の相手にはならないと思うが」
及び腰で椅子から立ち上がると誘われるがまま後についていく。
村上の部屋とは場違いなくらい、冷蔵庫や小ぶりの箪笥が整理され、更には研究所で使用する化学実験器具なのかコンパクトな棚の数段に収納されている。これが同じ空間かと見間違うほど広い部屋に座布団が膳台の周りにきちんと置かれている。普段通り過ぎる透明ガラスの先は見えても精々敷布団の端ぐらいで屈んで部屋の中など覗いたことは無い。時には開け放ち掃除をしている光景を見るときもあるが、そんな時は誰の部屋も同様なはずである。
「好きなところへ座ってください」
この部屋の優男は冷蔵庫から缶ビールを取り出すと夫々の目の前に置きながら空いている座布団に座り、
「こんな物しかありませんが、どうぞ」
と勧め、自ら率先して缶ビールに手をかける。
「突然お呼び立てして恐縮なんですが、気になることがあり皆で相談の上お話しすることにしたんです」
優男は両脇に座る若者に同調を求め、自分の意思だけで事を進めているのではないとでも言っているように聞こえる。
「先ず私から話をさせてもらいます」
「村上さんにお話することが良いかどうか迷ったんですが、同じ住人同志、敢えて踏み込んで見ました」
「実は暫らく前の事なんですが、私が夜遅く帰宅した時のことです」
「他の2部屋は明かりもなく寝入っている様子でしたが、村上さんの部屋は灯りが点いておりました」「しかし、その灯りはぼんやりとしていて、蛍光灯のようなはっきりとした明るさではなかったんです」
「え!明るさですか」「そうですね、蝋燭なら5本ぐらい、5ルックス程度というところでしょうか」
「その灯りは障子に不鮮明な干渉縞を作っていたんです」
「暫らくするとそれは水面に波紋が広がるようにゆっくり動き出したんです」 「しかも、灯りの中央にゆらゆら揺れる小さな影が見えたときはぞっとしました」「その影は子供くらいの大きさで坊主頭に半そでシャツらしき服を着ていたように見えました」「その内小さな影は部屋の中を飛び回り始めました。でも、若しかすると眼の錯覚かと思い、近づいて障子にはめ込まれたガラス越しに部屋の中を覗こうとしたら、突然スーと灯りも影も消え辺りは真っ暗闇になったんです」
「私は咄嗟に村上さんに良からぬ災いを感じました」「これが私が感じた印象です」
優男は早口で一気に話を終えると、渇きに耐えられないとばかりビールをゴクゴクと飲み込んでいった。その眼は恐怖の坩堝を覗いたとでも言いたそうだった。
少し間があって右隣に位置する金縁眼鏡にハンティングシャツを着込んだ男がやおら話し始めていた。4部屋の中では玄関口に一番近い住人である。よくよく見るとこの青年、グラビアから抜け出した何処かのモデルのようにも見える。
「俺が見たのは感じが少し違うが、それでも尋常とは思えなかった」
青年は詳細を思い出すように間をおいてゆっくりと話し出した。
「日は違うが、矢張り俺が宿に着いたのは小雨の降る深夜だったと思う」「駐車場には村上さんの車しかなかったのを覚えている」「あの日は、他のお二人さんは未だ帰ってはいなかった」
「玄関に履物を揃え、廊下伝いに部屋に入ろうとしたら、暗い二部屋を挟んでその奥から何か物音がしているんだ。小さな音量で軽快なリズムが」「その時の村上さんの部屋には薄明かりもあった」
「深夜に村上さんが音楽を聞くなんて珍しいことがあるもんだと思ったんだが、その音色は音質もメロディーも今まで聴いたことも無い不思議な感覚だった」
「楽器が何なのか上手く表現できないけど、地を這うドラムの響き、哀愁を奏でるフリュートやオカリナ、突き抜ける喜びが金管を唸らせる、そう言った臨場感を受けたんだ」「その旋律は暗く寂しく、或いは波立ち瀑布のように襲ってくる恐怖感、時には大空を悠然と悠々と飛んでいる爽快感が押し寄せてきた」
「俺は暫らくその場に立ち竦んで聞いていたが、いたたまれなくて誰が作曲したのか、どんな楽器なのか聞いてみようと、村上さんの部屋に向かって歩き出したんだ」
「しかし、眼と鼻の先の距離がいくら歩いても辿り着かない」「緩くうねった起伏のある山道を、花々の香る広大な草原を、夢見心地で歩いているといった風に」
「そうなんだ。俺が感じた印象は何とも例えようもない楽しい感触だったんだ」 「結局村上さんの部屋には辿り着けず、そのうち部屋から音楽も明かりも消え真暗くなったんだ」「途端に我に返った気がして、歩く気力も無くなった」「後で聞いてみようと思いその夜はそのまま眠りに付いたんだが、あんなに心地よく眠れたのは滅多に無いことだった」
言い終えると金縁眼鏡は優男に視線を向け、彼の言を否定している訳ではないと言う表情を見せ小さく頷いた。村上は彼らの話を聞きながら最近身に起こっている現象と何か関連性があるのか、或いは此処のこの住処かに因縁めいた起因でもあるのではないだろうか等と考え込んでいた。
「不思議な事が起こっているんだよ。きっと。この屋敷の中で」
「それも村上さんの部屋か、村上さんに」
左手に座る耳に小さな珊瑚のピアスを付けた若者が、何かを期待でもするかのように頻りに話かけてくる。
「自分がつい最近見たことを話してもいいかな」
若者は周りに遠慮しながらも嬉しそうに切り出した。
「あれは4,5日前の矢張り深夜の事だったと思うよ」「自分が母屋の門を潜りかけたら直ぐ傍の欅の大木の周りが妙な霧に包まれていたんだ」「その夜は満月で霧の出るような気象じゃないのに何故だろうと辺りを見回すと、欅と反対側の雨戸の隙間から湧き出すように霧が噴き出していたんだよ」
「自分はてっきり住人の誰かが、又、夜中に何かの実験でもしているのかと思ったんだ」
ピアス君は伏せ眼がちに優男をチラッと覗き慌てて目を逸らすと、
「実際はそうじゃなかったんだ。霧は村上さんの部屋から幅広の帯のようになって廊下を突き抜け雨戸の隙間を潜り外へ出ていたんだ」
「外では見分けが付かなかったイエローの霧が」「眼を凝らして見ているうち帯が鱗粉を撒き散らし光っているように見え始めたんだ」「珍しいことが起こっているんだと思い、自分はこれを他の人にも見せてやろうと声を掛けたんだけれど声が出なかったんだ」
「分からないよ。自分だって何故声が出なくなったのか、今考えてもさっぱり見当が付かないんだから」
「そのうち帯が生き物のようにくねりながら自分の方に向かってきたんだ」 「驚いたよ。逃げようとしたけれど足も動かなかった。帯は幾重にも自分を取り囲み霧の中に包み込んでいったんだ。」「目の前は何処を見渡してもクリーム色の世界が広がり、同時に物凄く楽しい気分が沸いてきたんだ」「森林に囲まれた青い湖水の上でのんびり釣りをしている自分や、きらびやかに着飾った人達に混じり舞踏会のダンスに興じる自分をその中に見つけたんだ」
「自分は一度もそんな所へ行ったことは無いのに」
「今思うとその場所毎に何か心地良い香りに包まれていた気がする」「何時間もゆったりと楽しい気分が続く果てしない時間旅行をしていたように感じたよ」「高い樹上に横たわり、爽やかな風の音、柔らかな光の中でまどろんでいるうち、暫らくすると気が遠くなっていったんだ」「気が付いたら自分の布団の中で朝を迎えていたという訳なんだ」「前日の服を着たまま」
若者は見つめる全員を凝視し、
「自分が見たことは間違いなく本当の話だ」と、弁解がましく何遍も繰り返した。
「これと関係があるか分からないけど」
ピアス君は更に繋げた。
「この間ここの大家さんの御婆ちゃんが言っていたことなんだ」「今までに、この下宿に住んでいた人の中には奇妙な体験をした人もいるって」
「皆が見たり聞いたり、或いは香りや味、肌触りを感じる現象に遭遇した人は幸せになれるって」「お婆ちゃんはそう言っていたよ」
暫らくは余韻が漂い各々の脳裏に感傷の余波が流れ、大分時が過ぎた頃、3人の眼は次第に村上を向いていた。村上の口から知られざる秘密が解き明かされるのではないか、我々もその秘境に遊び共有できる時空を飛びまわれるのではないかと見守っている。何を聞かせてくれるのか、一同は目を瞑り眉間にしわを寄せ腕組みする村上を注目し続けた。置時計の時を刻む音だけが自棄に甲高く響いている。やがてゆっくり口を開いた村上の言葉は住人達を落胆させるに十分であった。
「そんな夢のような話は信じられないね。俺の家系に超能力者なんか誰もいないし霊感のある奴がいたなんて話は聞いたことも無い」「皆が見たというんならそうなんだろうが俺には理解なんて出来ない」「面白い話をしてもらったが、俺はそんな話に興味は無いんだ」
村上の突っ放した言い方に3人の表情はもろくも崩れていった。盛り上がりを見せた座はしらけ、村上を見る目付きも冷え、続けようとする会話など既に遠のいている。
「お手間を取らせました。参考になるかと思ったんですが却ってご迷惑をおかけしたようです」
金縁眼鏡の小声がして廊下を渡る村上の足音が小さくなっていった。
「だから余計なことは言わなけりゃ良かったのに」
「あの人は最初から暗い感じがしたんだから」
ピアスを付けた若者の声は遠ざかる村上にも聞こえていた。
「折角俺のことを考えて言ってくれたのに悪いことをしたな」
「しかし、何であれ騒がれるのは一番苦手だよ」
自室に戻った村上は机の前に座ると心の中で自身に言い訳がましく呟いていた。

第3節 異変その3(子供)

 このところあの公園に子供を見かけていない。嫌、もう暫らくの間見ていない気がする。村上は気になってはいたが小さな森を訪れる余裕さえ剥ぎ取られ生徒達の受験勉強につき合わされていた。鄙びた町にしては少数精鋭教育方針が功を奏してか、理数系単科大への進学率は高く、この地域では名の知れた私学であった。生徒達も比較的裕福な家庭に育ち高い授業料に困窮しているといった生徒は誰一人として見受けられず、選りすぐられたと言う自負心が相互に作用し更に学力を高めていた。表面上は眼の色を変えて必死に打ち込んでいる様子は見られなかったが、どの子供達の瞳も独特の輝きを秘め目標地点を遠くに定め意思を鮮明にしているように見える。むしろ進学については親の方に心境ただならぬ様子が伺えた。今日も父兄の誰かが、嫌、今日に限って大勢が押し寄せている。村上が職員室に入ると早速事務長が飛んできて理事長が君に話がある、と真剣な表情を見せた。村上が理事長に呼ばれることなど滅多に無く、その他大勢の内の一人とでも思われていた節もあり、村上には呼び出しの合点がいくはずもなかった。
一私学とはいえ重厚な部屋の作りは流石に独裁事業主の趣が滲んでいる。大理石の床に黒檀の執務デスクといい藤仕立ての椅子といい資金力を感じさせている。入室すると中央に備えられたソファーに着座を促される。手触りのいい黒光りする皮革が何であれすわり心地は格別であった。理事長はデスクからソファーに腰を移すと、
「ここへ来て君もかれこれ5年が経過する。大分校風に慣れ私の意図するところが分かってきたように思う」「今までの君なら余り期待は持てなかっただろう」「私学は実績が一番だ。実績なくして我が校はあり得ない」
理事長は育んできた校風を誇らしげに然も諭すように村上に言い聞かせている。
「どうした訳か最近の君の授業はなかなか面白いと評判だ。この間実施された全国模擬試験の数学は平均点をはるかに上回っている。これは開校以来のことだ」「これなら此処にいられる」
理事長は満足そうに村上を見据えた。が、未だ何か言い足りないのか、或いは触れるべきではないのか、迷っているように思えた。
「私は実績さえ挙げてくれればそれで良いと考えていた」「しかし、そうとばかりも言っていられなくなった」
「実は気になることがある。それは君の挙動だ」「ある父兄から最近子供の成績は眼を見張るものがあるが、妙に色気づいて来て困ると抗議があった」「どういうことか分かるかね」
返された村上もどういうことなのか判断しにくかった。
「思春期が原因ですよ。時期が来れば誰でも陥りやすい不安定な青春のまっただ中」「生徒を誘えるほどの風貌かどうか私を見れば分かると思いますが」
「今日集まっている父兄はそのことが原因だと仰る訳ですか」「悲しいやら嬉しいやら、複雑な心境ですね」
村上は無造作に答えて口を噤んだ。言われるような素振りを見せたことは無い。嫌、そんな気などさらさら無い身に、時としてあの潤んだ目付きは矢張り己自身に原因があるのだろうか。何の取り柄も無い事は村上自身がよく知っている。気付かない不思議な『自分』が何処かに居るとでも言うのか。それが回りに見えるとでも。
「理事長の言われる、気になる挙動とは一体何ですか」
自問自答を繰り返していた村上は、髭を蓄え四角張った顔に向き合っていた。
「私は君を観察しているわけじゃない。専らそういう話が届いている」「何時もそうだという訳ではないらしいし、誰にでも感じる事でもないらしい。」
理事長は曖昧ながら事情を話し始めた。
「君が故意に取っている言動かどうかは村上君本人にしか分からないだろう」 「当校の生徒ばかりではなく一部の教職員もそう感じたらしい」
「君が子供のようになって青い空の中に透け、明るい光を放ち輝いて見えたそうだ」「同時に爽やかな澄んだ香りが辺り一面を覆い、気分がスーと軽くなっていく爽快感があると」
「その様は心浮き立たせる華やかな世界に、吟遊詩人を髣髴とさせる深みを感じさせることがあると」「それは君の授業中にも起こるらしく、見たものはそれを理想と信じたくなるらしいんだ」
「特に女生徒は多感な年頃だ」「不思議な幻影を見せられたら誰だって変になる」「私の言わんとするところは分かってくれると思うが」
理事長の目元は緩んでいたが、口では2度とそう言った行動は慎むよう釘を刺している。
村上は反論のしようが無かった。何故そう見えるのかさえ分からなかった。最近自分自身に或る変化が起こっていることは認められるが、その理由など推測すら出来ないでいる。自身が幻影を見せ翻弄させている訳が無い。そう見えた人たちが被害妄想に陥っていると言いたかった。無論そんなことは言えず理事長の言に従うしか方法は無いが、どうすればそれを食い止められるのか、元の自分に戻れるのかは全く分からなかった。
それほど経っていないあの春祭りの頃、空砲が打ちあがって長閑(のどか)な日々が過ぎていくはずであった。稀な機会に特異な厄難があるべきを違えて村上を叱咤し、苦界にさ迷わせ試しているのか、それとも有限を超え遥かなる時に夢遊し異郷を与えられる聖者たらしめられたのか、村上はこの場で結論を急ぐ必要の無いようにも思われた。冷静に考えてみれば例え幻影を見せたとしても危難や災難に繋がる恐れなど感じられない。子供達に希望や夢が広がって学業に専念出来て、親が文句を言う筋合いなど有っていいものか。呼び出されての苦言が白々しく思えて来た。
「理事長、何時でも良いですから私の数学の授業に親を参観させて下さい」
「きっと、疑問も嫌疑も晴れると思いますよ。私に他意の無いことが分かるはずです」
村上は自信有り気にニッと笑みを浮かべた。
その態度に理事長も一方通行よりも妥当と判断したのか、頷くと、
「それから事の裁定をする方が自然か」
実績を上げつつある村上に同調したか、又は何かを思いついたのか目を細め賛意を示した。
「今日集まった父兄には私からよく説明をしておく」「君のことだ。間違いは無いと信じている」
話が終える頃には厳めしく訝しげに見つめていた眼は消え、和やかな表情が浮かんでいた。
理事長室を出て廊下を歩く村上にフッと妙な気分が差し込んで来るのを覚えた。
「何時もの理事長とは違うな。今日は物分りが良過ぎる」
「まさか言われているような幻影が理事長にも見えたんじゃないんだろうな」
村上は再びニヤッと笑うと教員室の引き戸を開けていた。

第3章 ときめいて
第1節 紹介された補助教師

 この日も村上にとって極当たり前の一日が暮れようとしている。周りから言われている妙な自分は見えなくとも、時として村上の見つめる人が、光り出し音を携え出現する別人に変幻していくのを感じている。光は様々な色を発散させその輝度は、人により時により姿が見えなくなるほど眩しく輝いて見えたり、暗闇で擦るマッチの炎位にしか見えない時もあったりと、その不思議さは村上の脳裏にその情景をはっきり刻みつつあった。その人から飛び出した光が経時変化を見せることもあった。あくまでも強弱ではなくスペクトルの変化が。色鮮やかに変化(へんげ)し夜空に打ちあがった花火さながら見とれては唖然とするばかりであった。話しかけ、見られている当人は村上を怪訝な表情で見返すこともあれば、更に大輪の花を咲かせてくれることもある。同時に響きのいい音色を軽やかなリズムが引き連れ、瞬時のこととはいえ安らぎを満喫させてくれることも。
村上は何時出現するとも知れない迷彩服を着た音楽師が、何処に住みどんな境遇下で何を考え行動しているのか知りたくもあった。立ち入らなければならない切迫した感情は無かったが、傍観者の今までとは違う自分を見ている気がしてならなかった。昔であれば、遠い過去の村上ならば扉を開けて覗こうとはしなかったであろう様々な変化が訪れている。気心の知れた余程の人間以外は人見知りに走り、人と交わり手を差し延べあうこと等、煩わしく苦痛にさえ感じていた自分が薄らいでいる。食うために止むを得ず選んだ職種がそうさせたのか、そうせざるを得ない状況下に追い込まれたのかは判然としない。ただ何時の頃からなのか何となく分かってきたように思われた。不自然で不安定な毎日が何時からなのか。
 午後の正規授業も終わり職員室には30名ほどの教職員達が顔を揃えこれからの補講の準備に追われている。希望者を対象にカリキュラムが組まれ暗くなるまで授業が続けられるが、生徒によっては同一教員を避け、ここから離れた熟を目指す者もいる。
ガヤガヤとした雑音に紛れ職員室の引き戸が開くと、理事長に付き添われて一人の女性が入室してくる。二人揃って横に長く伸びた職員室の端に立ち止まると、
「皆さん忙しいとは思うが少し時間を頂きたい」「明日でもよかったんだがちょうど皆さん揃っているので紹介しておきます」「この方には明日から当校で英語の補助教員をして頂くことになりました」「詳しいことは明日朝礼時に話をします」
理事長は会釈をしている女性を促すと足早に引き返していった。
職員室の一時消えた雑音は直ぐに息を吹き返すや、より以上の騒音を生み出している。その中に村上は目を見開き、口を開けそこに己の存在すら忘れたかの如く二人の消えていった戸口を見つめている。若くは無いが年でもなく細面に瞳が輝く透き通った色白のあの人は何処かであったような、何処かで見たあの人は誰だったろうと。村上は何故かしら少しときめいているように感じられた。夢中の事のようにも空想上の事のようにも思われるこの一瞬が長い余韻を引きずっている。しかもさっきまで感じられなかった甘い香りさえ漂っている。これまでに無く落ち着かない波だった潮騒は何なのだろう。高まった鼓動は何処へ届くのだろうと。短くて長い時が過ぎると、村上は急に辺りが静かになっていくのを感じ彼女の退出していった戸口から目を逸らす。と、その近くに立っている同僚教員が眼に入ってきた。夕日が差し込む校庭の窓側に背を向けて座る村上をまじまじと見据えている。既に職員室に物音は無く静まり返る奇妙な緊張があった。見回すとどの教員達も細長い職員室の窓辺に居る村上を見つめている。動作を途中に姿勢を崩しながら顔だけが村上に向いて。或る者は隣の教員にこれを見てみろとばかりに小さく指差している姿もあった。余りの異様さに思わず立ち上がっていた。村上を見ていた誰もが、それまでしていたことを思い出したように動き始める。雑音も物音も以前と同じようにガヤガヤ、ギシギシと音を立てて。そ知らぬ顔の中に関わりたい素振りを見せ時折チラッと覗き見る目は奇異に思える。教材を抱え補講に出て行く教員の中には何かを期待し確かめる様子も伺える。職員室にただ一人残された村上の脳裏には理事長のあの言葉が繰り返されていた。

第2節 見えない、聞こえない女(ひと)

 生暖かい小雨が街路樹に生気を与え、緑を濃くしている。視界が開けて小さな森も息づいて見えて来る。子供は矢張り来ていないようだ。小雨の中に窓を開けて森に視線を走らせるが何も見えない。じっくり探す間もなく中古車は荒々しい息使いで校門を潜っていった。少し早い気はしたが職員室の時計はそれよりもずっと早い時を示している。未だ誰も来ては居ない。席に着くがそわそわと落ち着き無く辺りを見回す。やおら立ち上がると廊下に出ていき、ガラガラとバケツを手に提げ手洗い場で水をなみなみと汲み、フウフウ言いながら職員室に運び入れる。腕をまくり雑巾を絞ると村上の隣の暫らく主のいない、空いている机の上を掃除し始めた。洗剤を吹きつけ必死になってゴシゴシと擦りそれが終わると、引き出しを開けごみをはたき塵一つ見逃さず拭き払う。玉のような汗がこぼれてくる。磨き上げられた机を見ながら満足そうにニッと笑みを見せると掃除具を片付け始めた。村上が職員室に戻ると既に3,4名の教員達が登校し授業の準備を始めている。挨拶もそこそこに椅子に座った村上を見咎めると、一人が冷やかし半分に声を掛けてくる。
「朝早くから精が出るね。どういう風の吹き回しだい」
「最近はやたら嬉しそうだが何か感じることでもあるのかい」
キャリアも実力も追随を許さぬ老教師。理事長一族の引きもある古参の狸である。村上とは言わず新任なら誰でも一度や二度は痛い目に遭う。
「別にどうということはありません。春の陽気が良いんでしょう」
「たまには体を動かさないと錆び付きますから」
以前の村上であればかわす様な事は無く、意に染まぬことがあれば誰であれ真正面からぶつかっていたであろう気性は最早見られない。老教師も居合わせた同僚も意外な返答に拍子抜けした表情を覗かせている。それでも追い討ちを掛けようと老教師が口を開きかけた時、職員室にぞろぞろと教員達が入室して来るに及び険悪に踏み込む会話は途絶えていた。
今日に限って理事長の教育施策演説が延々続いている。否、新任が来るたびに毎度繰り返される理事長の晴れ舞台なのか独演会か、始業時間が気になる人にとっては有り難迷惑でもあった。ようやく赴任してきた女教師の紹介が始まる頃には始業のチャイムが鳴り響いていた。名前や履歴が手短に紹介されると、何れ詳しいことは後でと言い残し、事務長に後を任せ退室していく。残された教員達も時間に追われあたふたと授業に散っていった。村上は席におっとり構え新任教諭を眺めている。事務長は使用する机やロッカーの場所、備品の置き場所等を事細かく説明すると、
「今日は午後からだったね」念を押すように確かめ、急用でも出来たのか大声で呼んでいる理事長室に小走りに向かっていった。
一人取り残され、バッグには教材が詰まっているらしく、はち切れそうに脹らみ重そうに下げているもう一方の手は、渡された私学校関係の資料を大仰に抱えている。
「ここが千明さんの席です」「遠慮せず掛けてください」
村上の隣席を目で指し示し、続いて
「遠くから来たんですね」「分からないことがあったらなんでも聞いてください」「私に出来ることがあれば何でも」
村上は頼まれもしないお節介を焼き始めている。
小柄な彼女は軽く会釈をして机を回り込み並んだ机上に荷物を降ろす。手際よく机の中に教材や文具を仕舞い込むと職員室内を興味深く観察し始めていた。
「ちょっと失礼」
彼女は立ち上がると教室の配置図を片手に廊下へ出て行く。
誰も居なくなった職員室で、村上は小首をひねり浮かない顔をして呟いている。
「何故何も見えない。何も聞こえない」
何も見えず聞こえないことは普通である筈だし当たり前のことではあったが、いたたまれない虚しさに曝されていた。見ようとしたにも拘らず一筋の光すら届かなかった。爽やかな調べは何一つ響いて来なかった。見ようとしなければ見えないものだと思ってはいたが、見ようとすれば何時でも見ることが出来る気がしていた。然し、今日の感覚はこの一ヶ月ほどの間に感じた事とは違う。窓の外に椅子の向きを変え何度も呟いている。「何故何も見えなかったのか」と。
「先生、何が見えなかったと言うんですか」
その声に振り向くといつの間にか背後に女生徒が立っている。
「先生、何時になったら教室に来るの。皆が待っているのに」
女生徒ははにかんだ様子で甲高い声をあげた。 村上は促されるように立ち上がったが未だ浮かぬ顔をしている。
「早くして下さい」様子を見に来た女生徒は尚も催促するが、村上の動きは緩慢に、顔は合点のいかない表情を見せている。
「先生、相手が見せたくない、或いは見せまいとして構えていたとしたら何も見えないんじゃない」
女生徒は村上に向かってフフッと意味ありげに笑うと上目遣いに妖しい眼を光らせた。
思ってもいない不意の台詞に動揺したのか、
「何故そんなことを言う。お前何時からここに居るんだ」
探し物をいち早く言い当てられて、村上は照れ隠しにもならない愚問をぶつけた。
「今出て行った人と入れ替わりに入ってきたのに、村上先生が、気が付かなかっただけです」
女生徒は又してもフフッと笑う。
村上は苦笑せざるを得ない状況に追い込まれながら、この場は一刻も早く授業に矛先を向けさせることが最善とばかりに、
「黒板に書いて置いた問題は出来たんだろうな」「もし不正解なら廊下に立たせるぞ」
「教室へ俺より遅く入ってきたら遅刻扱いにするからな」
すばやく教材を抱えると照れ笑いを浮かべ、黄色い声を張り上げ抵抗する女生徒を尻目にスタスタと歩き始めていた。
 午後の授業が始まると新任教師も英語担当の主任に付き添われ職員室をいそいそと出て行く。緊張した面持ちは微塵も感じられず毅然として後をついていく様はどちらが古参か見分けがつかないように思われた。口数が少ないのは慣れない性なのか持ち味なのかは汲み取りにくいが、何処にも笑みは見られなかった。
出て行く彼女を見送る村上の眼前を誰かが遮って来た。見上げるとあの老教師である。 「新任が大分気になるようだがお前には高嶺の花だろうよ」「分をわきまえ行動したほうが賢明だぞ」
言い足りなかった朝の嫌味が午後に引き継いでいる。
「ここは学究の徒が研鑽に励む所だ。くれぐれも忘れることの無いよう注意することだな」
老教師は村上を一睨みすると意地の悪い目つきを残し職員室から出て行った。
老教師が見えなくなると、未だ職員室に残っていた隣席の国語教師は、
「あの古狸の事は余り気にしないことね」「そろそろ季節の病が始まる頃だから」
村上に向かい何時もの冷静で落ち着いた声を送っている。
「別に気にはなりません。大分慣れましたから」
村上は軽く会釈を返し国語教師の顔を覗き込んだ。
「先生は千明先生について何かご存知なのですか」「何故この学校に赴任したのかその理由を」
「何でも知っていると思ったら大間違いよ。前にも言ったけど条件が揃わなければ解答は不正解になる場合もある。でも、その事なら簡単明瞭」「事務長の話では理事長が遠くの知人に頼まれたと云う事らしいわ」「それも赴任期間が半年程度の期限付きで」
国語教師は村上の机に視線を投じ知りえた事を快く教えてくれる。
「村上さん、あの人に興味があるようね」
女教師は村上に顔を向けると眼を合わせている。途端に又あの光が彼女の体の中から飛び出し天井を突き抜けていく。目を見開き懲りもせず天井を見つめている。今日は余りにも瞬時のことに鐘の響きも共鳴も聞こえない。ぽかんと口を開け、眼をまん丸に見開いて天井の一点を凝視していたが、ハッと我に返ると慌てて彼女に視線を戻した。そこには以前気まずい雰囲気を作った状況が再現されている。彼女の眼はもう既に怒っているように見えた。彼女はものも言わず立ち上がると愛用の事典を小脇に抱え足早に職員室を出て行った。
「又怒らせた。同じ失敗を重ねるとは大ばか者だな、俺は」
村上は自嘲とも取れる苦笑いを浮かべ天井を仰いだ。

第3節 時間とともに

 次の日も又その次の日も村上に対する新任教師の態度に変化は見られず、何かにつけ世話を焼きたがる村上だけが空回りしている。周囲も少し前には考えられなかった村上の行動を冷ややかに、しかし、ある種の滑稽さに嘲笑を重ね合わせ傍観していた。教員の半数は女性教師であったが大半は既婚者が占め、彼女等は任された牙城へ君臨する威風堂々とした片鱗を見せ付け闊歩している。そんな女性教師達にとっては余りにも豹変した村上のする他愛ない言動ですら目障りでもあり煩わしく思えるところでもあった。何日かが過ぎる頃には出れば打たれが如く次第に意味も無い感情だけの流れ弾も飛んでくる。村上の「不思議」は周りに見えなくなったのか、見ようとしなくなったのか影を潜め、目障りな被写体を気に入らないといった目付きだけが追いかけている。あの老教師も女性教師陣を盛り立て村上にあれこれ難癖を付けている。それほど波風の立たなかった今までに比べ、こんなにも他人(ひと)は変わるものかと村上を少しばかり感傷的にさせていた。ただ、今の彼には逐一取り立てて争い、我を張る素振りも落ち込む様子もまるで無く、一向に頓着する風は見えなかった。
警戒心が強いのか風采の上がらない村上が見劣りするのか、新任教師は至って平静を決め込み彼に対する際立った所作は皆無とも思われた。時折強張った表情の中に笑みを見せることはあっても、それは何らかの理由によるようであった。彼女に伝わらなかった不意の連絡事項とか居住している地域の利便性や娯楽施設の場所といった類の、言わばお仕着せに過ぎない情報では滅多に相手にもしては貰えず、最も手短な礼が返ってくるばかりであった。しかし、村上のする子供染みた言動の中にある種の郷愁や懐かしさが見え隠れするときは何となく気持ちが解(ほぐ)れていると感じられた。
授業も日常の行動も誰に揶揄されることは無く寧ろ近寄り難い淑女と見なされ、独身という表札は有頂天を極め恐れを知らぬ村上にだけあるようなものであった。
 日が経つにつれ僅かな変化の中に村上を心浮き立たせる日々が続いている。強引に昼食を共にしたある日の午後、生い立ちやら身の上についてほんの少しではあったが聞くことが出来た。些細な話の中にそれほど経っていない何処かで聞いた記憶が妙な違和感を掻き立ててもいる。彼女も村上の童心に共鳴してか話下手の上手くもない表現に付き合っている姿をよく見かけるようになっていた。この頃にはもう教職員の誰もが村上に起こっていた「不思議」を感じることは無く、妙に明るくなったひょうきんで目障りな、異性に恋焦がれる柔な男としか映ってはいなかった。教員の或る者は新任教師に、「しつこく付きまとわれて困ったら私が援護してあげます。何時でも力になりますよ。」とか、「嫌なものは嫌とはっきり言わなければ分からない人もいます。黙っていると何時までも迷惑を被ることになります。」と彼女に助言とも接近とも取れる言葉を贈る独身教員も現れたが、その度に彼女は村上に傾倒していったように思われた。日を追う毎に談笑し連れ添う二人の姿が見かけられるようになっていった。誰もが通る趣味の話や叶えたい希望、理想を述べ合うことが増えるに連れ躍る心は一層高鳴り村上を更にひょうきんにさせていた。自分では彼女のことは知り尽くし、行く末はどんな望みも叶えてやれると思い込んでいたが、話してもらえないことも多々あった。どうしてこんな辺鄙な片田舎の教師を希望したのか、何故そんな短期間に帰郷しなければならないのか等さほど問題にもならないであろう事が何故自分に教えてもらえないのか未だ疑問として残っている。しかし、より近付いてみると女性の持つ優しさや細やかな感情の起伏が伝わり、抱いていた募る想いは険しく立ちはだかる峰々を疾風の如く駆け登り天空に舞い上がっていく。全てが一点に集中し淡く切ない想いが繰り返し想起され、何も出来ない考えられない自分を見ていることが多くなっている。村上が最も理想とし夢見ていた女(ひと)が目の前にしかも隣席に居ることが信じられなかった。期待し望む答えはウィットに富み充足感に浸らせてくれるばかりか、笑みを浮かべて伝わる軽やかなソプラノの響きは全てを容認し開放してくれる。それは天使が授けてくれた至福の一時として延々と続く余韻を引いていた。
 梅雨が明ける頃、村上は暫らく遠ざかっていた郷里に、思い切って彼女を誘ってみようと思い始めていた。故郷の山河や鄙びた社を懐かしく思うと同時に何もかも共有したい強い意識が働いていたからである。が、拒否され今を壊したくない想いはそれ以上に強いものでもあった。彼女がここに居る時間はもう限られ、それほど悠長に構えてはいられない切迫感が押し寄せている。何故帰らなければならないのかその理由を教えてもらえない苛立ちが、募る想いを焦燥させてもいた。
 蒸し暑い午後の授業が終わりを迎えようとしている。冷房を入れるには未だ早く規定の室温には届いていないが、いきなり暑さが訪れ職員室にも初夏の夕日が降り注ぎ込んでいる。今日は共に特別授業も補講も無く、並んで椅子に掛ける村上には絶好の機会でもあった。
「千明さん、今日の予定は何かありますか。無ければ一度ご案内したいところがあるんですが一緒にいかがですか」
村上は何時になく緊張していると感じた。誘ったその先にこれからを決定付ける筈の大事な返事が気になり、ひょうきんなピエロは萎縮し硬い表情ばかりが伺えた。然し、意外とも思える答えが返ってきた。
「今日しなければならないことは沢山あるのよ。買い物も、行きたいところも。村上さん、貴方の予定を入れると私の予定はどうなるのかしら」
微笑んでいるように見えた。
「分かったわ。貴方に取って大事な予定かもしれないわね」「私の予定は次に送るから気にしなくても良いわよ」
村上の体から強張ったしこりとも突き刺さった茨の棘ともつかぬ痛みがスーと抜けていく。これまで曖昧な中にそうであるかもしれないと言う思い込みの中で過ごしていた自分が、今明確に明瞭な返事を受け取っている自分を感じている。村上を見つめながら彼女は先を見越したように、
「隣町に新しく出来たミュージアムを見たいと思っていたのよ」「飾られた天使のモニュメントも素敵らしいわね」
彼女はニッと白い歯を見せ村上の期待に応えた。
「千明さん、何故行き先をご存知なのですか」
村上が嬉しそうに尋ねると、

「誰にでも判るわよ。机にわざとらしく2枚のチケットが置いてあれば」 彼女はいそいそと机上の教材を片付け始めた。
「早く行かないと閉館時間が来るわよ」
妙にぐずぐずする村上を急がせていた。
 興味のあった科学博物館の目新しい機器や展示物も脳裏の何処にも欠片さえ残ってはいない。ただ、彼女の楽しそうに見入る眼差しだけが焼き付いている。夕食を共に切り出した望みもあっさり受け入れてくれた快感は何時しか村上を有頂天にさせていた。今いるこの時をこの手で止めることは、せめてもう少し流れを遅くさせることは出来ないのか。天空の光も時も何もかも手中に治めて。 魔方陣を敷き、目を輝かせた村上を彼女は柔らかな眼差しで見つめていた。

第4章 巨木の命
第1節 村上の願い

 真夜中に冷たくも無い、色の付いた雨が降り注いでいる。家の屋根、巨樹、男の子の頭や肩に音も立てず落ちている。黄色いそれは真っ直ぐに地表に落下すると、小さく砕け散り靄を這わせる。黄色い靄はあたり一面を黄金色に染め徐々に厚みを増していく。子供は雨を顔に受けながら降って来る遠く暗い彼方を、眼を見開き見上げている。何処からこの黄色い幸せの粒が落ちてくるのか。靄は何時色を失い透明な風に乗り消えていくのか。黄色い雨を眺め続けている。雨は糸を引くように黄色い光跡を闇に浮かび上がらせ当たるものに靄を作る。湯気?綿帽子?雲?取り巻いてフワフワと浮かび、明かりを広げていく。何時しか雨は止み靄が立ち込め周りは焦点のない黄色い世界。子供の薄汚れたTシャツは最早黒を失い金色に映え同化している。靄の中に揺れながら体を左右に振りながら視界の利かない空間に一人何か楽しそうに。口を少し開け虚ろな瞳が宙を舞う。体を揺らして呟いているようにも口ずさんでいるようにも見える。心地良い温もりは心の重力を解き放ち爽快さを匂わせている。時が経つごとにあどけない子供の顔は少年から青年へと希望に満ちた顔付きを見せ、合わせたように靄は吹いてきた風と共に薄れ色を違えていく。華やかな単色も、混じりあった濁色も一同にその世界に。風は益々強まり音を鳴り響かせ心に明暗を分け吹き抜ける。騒がしく切迫した色も匂いもそして音も目の前を俊足で駆け抜けていった。
 耳障りな数人の人の声が外に聞こえている。蒸し暑い部屋に雨戸の隙間を通して強い日差しが差し込み、部屋をより暑苦しくさせている。今日は休日のはずだが何の寄り合いでもあるのだろうかと、ぼんやりとした眠い目をこすり起き上がった。廊下に出て戸を開け放つ。そこには大家と大柄な設計士風と見える男と数人の庭師が、家の周りを見回しながら図面片手に何やら話し合っている。
「お早うございます。何かあったんですか」
村上は眩しい日差しに薄目を開け大家に声を掛けた。
「村上さん、何時までも寝てると眼が溶けるよ」「規則正しい生活をしないと頭が働かなくなる」
大家の言は村上にケジメを指摘でもしている。
「実は未だ誰にも話はしていないんだが、家の周りの樹が大きくなりすぎて邪魔になった。そこで伐採しようかと思ってな」「この欅ときたら落ち葉が凄いんだよ」「近所から苦情も来てる事だし」
大家の表情は致し方ないという風に映った。村上の意識は急にはっきり覚醒していく。眩しくて見開かれなかった渋い眼は大家を見据え睨んでいる。
「大家さん、私が言うのも変ですがこの樹はこの家や地域を護ってきたように思います」「私には昔がどうだったのか何も分かりませんが、人も樹も場所を選んで育っているように感じます」「安住できる場所だから樹は大きく成れるし、人は平静でいられる。同時に人や樹はその地を大切に思うんじゃありませんか」
滅多に話もしない村上がこんなことを言うとは思いもよらなかった。
「あんたがどう言おうともう決まったことだ」「周りに迷惑は掛けられないよ」
大家は村上から目を逸らすと設計士と向き合い、クレーンの設置場所や搬送車両の台数、伐採後の搬送先等を検討し始めている。村上は何故か人事には思えなかった。この伐採計画は余りにも短絡的であり、短兵急過ぎるとしか感じられなかった。
「まだ猶予の余地があるのではないですか」「切ることは簡単です。でも切った後がどうなるのか考えたことはあるんですか」
村上は既に挑発的な自分に気付いてはいなかった。 「人の都合で樹を植え、葉が落ちて迷惑になるという安易な理由で切り倒す。そんなことが許されるのですか」「樹が葉を落として何が悪いんですか」
けんか腰の村上に普段は温厚な大家も苛立ちを募らせていく。ついには向き直ると、 「俺は別にお前さんの意見や講釈を聞きたいと言った覚えは無い」「此処の地主は俺だ。判断はこの俺が決める」「それが嫌なら出て行ってもらっても結構だ」
大家の顔はこれまで見たことも無い表情に変わっている。
「私は他の方法もあるんじゃないでしょうかと言っているだけです」「出て行く、行かないは関係ない話だ」
応戦する村上にも何故こんなにむきになるのか、のめり込まなければならないのか分からず感情の高ぶりだけが優先している。暫らく言い合いが続いたが、
「理屈の通らない奴に部屋は貸さない。今月中に出て行ってくれ」
大家の怒り捲った最後通牒は騒々しい言い争いに幕を引き、一団は広い屋敷の別の場所に移動して行った。廊下に残された村上の眼は我に返っていた。解決策を模索するどころか却って問題をこじらせ最悪の事態を招いている。
「何をやっているんだ、俺は。」「早く切ってくれと催促したようなもんだ。」 「俺にとって一番の安住場所だったのに」
もう休日どころではなかった。慌ただしく顔を洗い着替えを済ませるとアパートの外へ飛び出していた。何処を通って来たのか分からないまま公園のベンチに腰を掛け、背を丸めた短い影を見ている。梢を揺らす風が赤土に降り注ぐ陽の光を操り足元に明暗を分けていた。子供の姿も無い此処が何の意味もないように思えたが、来なければならない衝動が働いていた。此処に来れば心休まる解決策が沸いてくると言う啓示にも似た暗示を受けたのだが、それらしき妙案は浮かんでくる様子が無い。焦燥感は考えられもしない時間だけを早送りして空転しているようだった。額に手をかざしベンチに仰向けに寝転ぶ。目を細め見上げる空は眩しく透き通って限りなく果てしない。ホワイトブルーの彼方を見続けていたが光を浴びる眼が慣れてくるに連れ、かざす手は胸に置かれ足を揃えていた。古より膨大な時が遠ざかっていく遥かな空を眺めている。時折、森に吹き渡る心地いい風が通り過ぎると陽射しに曝されている痛みも和らいでくる。ゆっくりゆったりと過ぎて。耳を澄ますと何処からとも無く風に乗って鼓笛の音が鳴っている。切り裂く金管の音は歯切れの良い区切りをつけ更に高い譜を繰り出し、伴奏ドラムは連打を囃して賑やかに後に続く。硬質に騒がしく打ち鳴らされるトライアングルも笛の音の合間に響いている。祭囃子に似た軽快なリズムは次第に近付いて来るようだった。撒き散らされる響きは懐かしい思い出を連れ、ぼんやり見上げる薄蒼い空には小さな二つの黒点。降りてくる一粒は輪郭を鮮明にして複数に分かれると動作を始める。樹木のように枝や根を生やして。もう一つの粒も幾つかに分かれると人のように手足を伸ばし、斜めに構えて笛を吹き、腹に乗せたドラムを叩き、腕に吊り下げ鐘を鳴らして。背丈に似合わぬ大きな頭を後ろに逸らし上を向いて吹く仕草は得意そうに楽しげに揺れている。横に並んでドラムを抱え得意げに撥を振る幼い腕も軽やかにしなやかに宙を舞う。足取りも軽やかにダンスのステップは鐘の音のリズムに合わせて。数人の子供の鼓笛隊を取り囲み裸の樹々が踊り囃す。枝や根をくねらせ黒いTシャツに半ズボンの子供達を取り巻き心地よさそうに。樹々の動作は次第に力強く勢いを増し子供達を一心に囃し立てている。それはまるで樹々が子供達をあやしているかのようにも思えた。それも少しずつ年を経て成長した同じ子供と思える鼓笛隊を。村上は久しぶりに会った樹上のあの子が、目を輝かせ高らかに吹き鳴らし撥を振る仕草が嬉しくて鼓笛隊に合わせ思わず手を振っていた。不自然とも不可思議とも感じられず目の当たりの情景が極当たり前の事のように思えていた。一つの演奏が終わると聞きなれない真新しい音楽が村上の耳に心地よく響いた。曲が変わる度に樹々は根を折り枝を曲げ村上に会釈を交わす。最高潮に達した音楽は高音域から次第に緩やかな流れに変わっていく。子供達は背を向けると音量を削って小さくなっていく曲に併せゆっくりと遠のいていった。
村上の顔に傾いて射してくる薄れた木漏れ日が揺れている。樹上に開いた空に最早強い陽射しは見られない。梢を渡る足早の風だけが爽やかな音を運んでいた。ベンチから体を起こし子供達が消えていった空を見上げる村上の顔に曇りは無かった。

第2節 褒賞の話

 夏日を思わせる陽が校舎に降り注いでいる。週の始まりは何時も決まって慌ただしい職員会議や理事長の思いつき発言で振り回されることもしばしばだった。今日もご他聞に漏れず理事長は教員の資質向上を力説し、挙句の果ては「近年優れた業績を上げた者に対し表彰をしたい」と言い出したのだった。村上は大家と言い争いをした昨日の事が思い出されて理事長の話など上の空に聞いている。目を閉じ額に手をあて思案顔で独り言を呟く。ついにはしかめ面で頭に手をやりぼりぼりと掻き始めている。
「村上先生、理事長がお話中です。お静かに」
見かねた隣席の国語教師は村上に小声で注意を促した。諭されて理事長の方へ顔を向けると四角い顔が村上を凝視している。眼を合わせ口を開いて出た言葉は村上自信のことだった。
「村上先生、私の話はそれほど面白いとは思わないが、今日は良く聞いてもらいたいものだ」
普段なら経営者の傲慢さが端々に感じられるが、今日の理事長は至って冷静さを保ち穏やかに思えた。
「先程話した対象者は君だ。教育功労者に君を選んだ」「勿論金一封も出す」「これからも優れた教育者には表彰を実践するつもりでいる」
村上を向いて目を細め周りに同調を促す拍手を送っている。職員達も遅ればせながらの様子で手を叩いた。叩きながらも村上に注がれている眼は両隣りの席を除いてどれもが冷めている。村上は拍手を受けても未だ意味が分からないといった表情で周りを見回し、更には頭の後ろに両手を組んで肘を張り理事長を見据えている。そんなことよりもどうしたら樹を助けられるのか、どうすれば大家の決心を覆すことが出来るのかに気が向いていた。
「村上君、私が表彰したいという事に問題があるとでも言うのかね」
突如、理事長の尻上がりに高くなる声が室内に響き渡った。
「その不満そうな態度は一体どういうつもりなんだ」
少しも嬉しそうな素振りを見せない村上に業を煮やし目を吊り上げている。
「私は努力に対する褒章と考えて立案したんだ。思い付きなんかじゃない」 「皆さんの励みになると信じればこその思いがあった。だが、村上君、人を食ったようなその態度はどうなんだ」「私の気持ちを理解できないのなら褒章制度など無用だ」「皆のために立案したが取り止める」
顔を赤らめ荒々しく戸を開けると不愉快そうに職員室を出て行った。静まり返った室内はそう長くは続かなかった。古参の老教師によって破られていた。
「村上、お前一人のわがままで理事長の折角の好意が台無しだ」「他の人までその栄誉を受ける機会を失った」「皆に、どう申し開きをするつもりなんだ」
立ち上がって村上を睨む意地の悪い目付きは回りの代表を買ってでもいるようだ。援護するように一人が非難し始めると次々に後へ続く。
「少しばかり生徒の成績が良くなったからって鼻にかけているんじゃないんでしょうね」
「この間集団催眠療法に付いて講演会があったけど何か共通点があるように感じたのは私だけかしら」「潜在意識に働きかけてトランス状態に落とし込むテクニックは魔法のように思えたわ」
受講者の仲間に同意を求めている。
「催眠状態に置かれた人のα波やβ波は活発になるっていうのよ」「同時に妄想域が飛躍的に拡大するらしいわ」「現実との区別が曖昧になって桃色が見えることもあるって」
皮肉たっぷりに声を上げる既婚女教師の姿も見られた。
「得てして催眠術者はむっつりしているかと思えば何時の間にか雄弁家に変身する業を持っているらしいのよ」「ここにはそんな人居ないと思うけど」 「催眠術に掛かると痘痕も笑窪に見えるって言うから不思議よ」「千明先生、見えない催眠術者にご用心あそばせ」
仲間と見られる女性教師は冷ややかな声援を送っている。村上はというと、目は虚ろに首を傾げ聞いている風にも思えたし、うな垂れてしおらしく反省しているようにも見えた。部屋に流れる無言の息遣いは、自戒の弁明か或いは無意味な反論を手ぐすね引いて待っている様子が伺えた。ほぼ全員を敵に回し何事も無く済まされよう筈がないと渦巻いている。
「皆さん、今日の村上さんをどう思われますか」「何時もの村上さんだと思いますか」
村上の左隣りから明るい声が唐突に響いた。顔は笑みに満ちている。
「普段の村上さんなら理事長に対しこんな失礼な態度は取らないでしょう」「恐らく今日は余程大事なことを考えていたに違い有りません」「何れ弁明があると思います」「今日のところはそっとしておいて上げて下さい。お願いします」
千明は神妙に会釈をして同意を求めた。
不意を突かれたのか意外な展開に声は上がらなかった。口火を切った老教師も千明に敵意などある筈も無く、
「授業開始の時刻も過ぎていることだし、この問題は継続審議としてはどうだろうか。皆さん如何でしょう」
異議を唱えそうな人もいたが老教師に真正面から刃向かう者は無く、問題はあっさりと後送りされることになったのだった。
職員室は始業に向けて準備を急ぐ物音でざわめいている。授業に向かう足音が遠のくと一転して窓から差し込む陽の光だけが机の上に動きを止めていた。
 午後に入って僅かな時間の合間に昼食を共にしている姿があった。学校から西へ数軒先の洒落たレストランの窓際に向き合っている。見かねた千明の誘いであった。
「何を悩んでいるのかしら」「よければ話してくださらない」
千明は無口に陥ったピエロに微笑んでいる。眼を合わせてはいるが、それでも村上は口を開こうとしなかった。
「話したくなければ無理にとは言わないけれど話すと楽になることもあるのよ」「話しちゃえば」
笑顔の中に悪戯な眼があった。
「今朝は少し出過ぎたことを言って御免なさいね。「でも、何故皆は村上さんを敵視するのかしら」「催眠術師ってどういうことなのかさっぱり分からないわ」
千明の眼は不思議そうに訊ねている。村上は窓の外に眼を移すと、遠くに薄黒く霞んで小さく見えている森に焦点を合わせている。が、その眼は生気を削がれて元気なく映った。千明が再度言葉を掛けようとしたとき、注文の品がフリルの付いたエプロン姿と一緒に運ばれてきた。
「話したくなったら何時でも聞いてあげます」「どの人のどんな事にでも流れはあります。大きい事も小さい事にも。全ては自然の流れなんじゃないかしら」 「流れに棹を挿す必要はないと思いますよ」
言った傍から、
「村上さん、冷めると美味しくないわよ。頂きましょう」「食べれば元気になるものです」
千明の呼びかけは村上を今に戻していた。頷いて向き直ると顔をじっと見つめている。
「きっと千明さんの言う通りなんだろうね」
村上は気を取り直すと食事に箸をつけ始めた。黙々と食べている脳裏に、幼い時分の出来事が沸いてくる。それは村上にとって忘れかけていたことだった。

第3節 幼少時のお社

 境内の奥まったお社の両脇には大銀杏が聳え入母屋風に反った屋根を覆って薄暗い感じがあった。寒くなると境内の庭で焚き火に暖を取るお年寄りに混じって拾い集めた銀杏をくべ弾けるのを待ったものだった。黄緑色の艶に湯気の立った小さな実は特有の香りを添え空腹を満たしてくれたものだ。何時も一人で居た訳ではなかった。時に大人の存在が必要な事もあった。子供の火遊びは厳に戒められていたからだ。
 社は橋の袂から子供の足では随分と遠い所にあった。眼が覚めると家を抜け出し段差の高い袂の階段を上り道路を横断して川沿いに歩く。白い湯気の立つ川面には公魚猟師の小船が数隻浮かび網を引き寄せている。葦やまこもが群生する水際の先に小魚の跳ねる朝間詰めの時分であった。川沿いには随所に桟橋が幾列も見え、係留された砂利運搬船や貨物船に人影はない。未だ入り口も開かない魚屋の前を通り越し路地を左に折れると右手にでんぷん工場が開けてくる。沈殿槽の白いでんぷんは建屋の赤い鉄骨に対比してより鮮明さを印象付けていた。路地を進んでいくと広い道路と直行する。この道はあの橋の袂に通じる道であった。道路を横断しなおも進むと社の石畳が見え、その両側に一対の円筒形をした御影石の門柱が建っている。数段昇る前方には広い境内の土が見えてくる。その日は幸いにも人の気配はなく静寂と冷気が辺りを包んで何もかもが眠りに就いているようだった。樹々に覆われた社は変わらぬ無言の威圧感を漂わせ黒ずんでいる。狛犬に睨まれて立ち入る社殿に、下がった鈴を鳴らしたことは無かった。音を立てて居ることを何者にも知られたくはなかったのである。張り出した回廊に沿って歩き出す。片田舎に祭られる社殿の周囲を散策するに時間は掛からなかった。落ち葉に埋もれ笹の葉が茂る狭い通路が小さな音を耳障りに騒がせたことも少年の歩を速めさせていた。一回りしてから社殿を離れ見上げるとなお荘厳な気分に浸れた。社を前にして生い茂った権現山の楠や樫の樹が光を通さなかった為でもない様に思われる。立ち竦んでいることに飽きると、境内の隅に置かれた粗削りの石の上に掻き集めた落ち葉を敷き詰め腰を下ろす。社を覆う樹を斜めに見上げては意味もなく笑みを浮かべる。此処へ来なければならない理由を見つけようとは思わなかった。四季を問わず此処に居ることが安心であった。お社の神秘性に惹かれたかどうかは分からなかったが、兎に角此処は安堵感に満たされていたのだ。吐く息が白く上って目の前に霞を作った時だった。見上げる暗がりの中に羽ばたいている。ぼんやりと霞んで、白い2枚の羽は蝶が水を吸う時にするゆっくりとした開閉を繰り返している。楠木の葉が光を当てられ乱反射しているとは思えなかった。羽の大きさは葉の数倍もあったし、朝日は未だ昇ってもいない。柔らかな動きを見せていた羽は次第に緩慢になると垂直に合わせる。羽を閉じるとぼんやりしていた輪郭は目映い光を放ち始め梢や茂った葉を明るく浮かび上がらせていた。光の中に見えた姿は羽を携えた妖精のようでもあった。一瞬強く輝いたようにも見えたが光は急速に弱まり元の暗がりへと戻っていった。同時に下駄を鳴らして石畳を上がってくる足音が聞こえてくる。足音は境内の中に踏み込むと社殿の前で止まり、変わって大きな鈴の音を立てていた。皺の依った皮膚に顎鬚を蓄えて拝む横顔は喜寿をとうに過ぎて矍鑠とした老人であった。昔は少年の通う学校の先生だったらしく会う人悉く国語先生と呼んでいる。拝礼が済み振り向いた視線が村上に突き当たると、
「坊主、相変わらず来てたのか」「何をそんなに驚いた顔をしてるんだ」
寒空に長身の作務衣は石の上に座る少年を見咎めて声を張り上げている。眼を合わせているが答えようとはしなかった。この老人は苦手であった。話をすれば何時ものように教訓めいた説教が飛んで来る。大声で辺り構わず振舞う様は一人で居たい時を壊すことが間々あって閉口させられていたのだ。至って世話好きで面倒見の良い頑固爺さんは少年の心の内にもあったが、押し付けがましい言動は我慢の出来ないところでもあった。国語先生は少年の意など介す風もなく近付いてくる。隣に腰を据えると眼光鋭く一睨みして懐からタバコを取り出す。火を点けると上手そうに煙を吐き出した。少年は嫌がる素振りで立ち上がりかける。と、
「坊主、わしが煙たいのは分かるが偶には話でもしたらどうだ」「少しは老人の相手をしても罰(ばち)は当たらんぞ」
国語先生は滅多に見せない笑顔を作って、少年が見ていた社を覆う薄暗い樹々を眺めている。腰を浮かせて老人を見ていたが呪縛を受けた如くゆっくりと座りなおした。
「お前は橋の袂の村上の息子だろう。お前の親爺もわしの生徒だったんだ」「家に帰ったら聞いてみろ」「親爺は出来が良かったがお前はどうなんだ」
薄笑いに冷やかしを込めた話しぶりは初めてであった。
「坊主、お前、絵は上手いんだな。新聞に載っているのを見たんだ。国際ビエンナーレに出品した森の絵は此処なんだろう。わしには直ぐお社の森だと分かったぞ」
国語先生は話し出すきっかけを作ろうとしている。
「一つ聞きたいんだが何故此処に来るんだ」「他に行く所はいくらでもあるだろうに」
真顔に戻って少年を覗いた。それほど強い語調ではなかったが以前の口調が再現されている。それでも口は開かれようとはしなかった。
「話したくなければそれもいい。だが、お前より少しは物知りだと思うぞ」
暫らく間が空いたが、
「坊主、全くお前は相当な頑固者だ。わし以上に」
国語先生は半ば諦め気味に吐き出すと左右に首を振って見せた。吸殻を足で踏み消すと腰を上げ村上を見下ろした。
「坊主、それじゃ又な」
そう言って立ち去ろうとする老人の背に勢いのある声が掛けられたのだ。
「僕、見たんだ。お社の上に茂った樹の中に」「それが何だか分からなかったけど見ている間は夢のような気分だった」
眼は輝き弾ける表情があった。振り向いて少年の顔を頷くと国語先生は石の上に再び腰を据える。来た時と同じように懐からタバコを取り出し、火を点けて上手そうに飲み込んだ。
「やっぱりそうだったか。あの表情は恐らくあれを見た顔だと思ったよ」
「でも、誰もが見える訳じゃないんだ」
村上はこれほどに柔和な老人の顔を見たことがなかった。苦虫を噛み潰して見せる怖い印象しかなかった筈が、お社を包み込んで荘厳な森の神秘を共有できる話し相手が隣にいると思えたのだ。
「国語先生も見たことがあるんですか。」「あれは何ですか」
眼を合わせながら勢い込んだ口調は弾んでいた。
  老人は嬉しそうでもあった。口元が綻んでいる。
「このお社の周りに生えている樹は権現山の主(ぬし)だと聞いたことがある」「誰がそう言い始めたのか知らんがわしはそうは思わん」
あどけない子供がする澄んだ目を向けている。
「言い伝えでは戦国時代に悪心を持った輩があれに遭遇し、懲罰を受けた事があったらしいんだ。それ以来あれは怖い存在だと言われている」「しかし、わしはそう思い込まされたに違いないと考えている」「決して主なんかじゃないと
」 言い切った言葉には妙に力が入っていた。何を思い出したのか笑みを漏らすとタバコを胸いっぱいに吸い込みゆっくりと吐き出している。
「国語先生も見たんですか」「見たからそう言えるんですね」
村上は老人の口からどんな話が展開されるのか待ちきれない様子で口を挟んだ。
「あれは老樹に宿る精霊さ。わしはそう考えている」「これまでにあれを見た者は恐らくわしとお前ぐらいだろう」「長いこと此処に来ているが誰一人として見たという話を聞いたことがない」「わしは死ぬまでこの話は出来ないと思っていた。ところが今日お前に会った」「同じ話の出来るお前にな」
老人は如何にも嬉しいといった表情を浮かべた。
「わしの経験だが、あれは心を映して見せてくれる」「お前には分かりにくいかも知れんが、気持ちを見せてくれるといったほうがいいがろう」「悪事に染まった者には悪心を、善良に生きようとする者には良心を」「言い伝えは本当のことかも知れんが主ではないと確信しているんだよ」
老人は悪戯っぽい目付きで少年を睨んだ。 「誰の心が見えるようになるんですか」「何時から見えるようになるんですか」
村上は好きで始めた絵筆に描きたい世界でもあった。
「見たい人の心や自分の見せたい心だよ。勿論自分の心だって見える」「でもいつも見えるとは限らんのさ。精霊は陽気で気まぐれな性格なのかも知れん」
「何時から見えたかなんて覚えていない。精霊に会った頃さえ忘れた気がする」
そう言って老人は甲高く笑った。
「心が見えるとどうなるの」
少年は先を急いだ。
「さー、どうなるのかな。」「それは自分がその時になって感じる方がいいと思うんだが」
老人は少年に優しい眼を向けじっと思案していたが、助言するように付け足していた。
「現実にするか思い出にするかは本人次第だ。どちらがいいのか、わしにも分からん」
「わしはこの年になって漸く分かりかけてきたことがあるんだ。神がいるとしたならばだが、神は人間がどう生きるのか試しているんじゃないかと思えて仕方がない」「わしらに見えた精霊も同じ事をしているように思える」
老人は少し間を置いて諭すように話を続けた。
「わしの経験したことで分かったことをお前に教えてやろう」「そうするもしないもお前の好きにすれば良い」「気まぐれな精霊の贈り物は2つの中の1つだ」「現実のものにしたければ色々な事を経験すれば良い。人が感じる4つの経験を。もし経験できなかった時は思い出と言う贈り物が心に残ることになる」「どちらも宝物だ」
老人は社の上を見上げ仙人にでもなった素振りで顎鬚を撫でている。少年の村上には言っていることが良く理解できず老人に顔を向けるばかりだった。老人は再び笑みを浮かべると立ち上がり少年を優しい眼差しで見ていたが、
「精霊は何時もお前の近くにいて試す時を窺っている。ただ、お前から離れていったら試練は終わりだ」「いい時を過すが良い」
言い残すと下駄音高く社を後にしたのだった。
「村上さん、今日は本当に変ですよ」
千明の声に村上は思わず顔を上げ焦点を合わせた。そこには眉を寄せて心配そうに覗く眼と、仄かではあるが爽やかな甘酸っぱい香りがあった。芳香は彼女から放たれているとしか思えなかった。匂いの中で意識が鮮明になって行く。
「今日は変なんですよ。少し考え事をしてたものですから」
「実は引越しをしようかと考えているんです」「あの住処は狭すぎるので何処か良い所がないかとね」
村上は敢えて笑い顔を作った。
「一人なら十分だけど二人になると狭すぎる。」
村上はすまし顔で千明に視線を送っている。
「二人になるならその人の意見も聞く必要があるんじゃない」
千明は意に介す風もなく素っ気無く返す。
「もうこんな時間。次の授業が始まるわよ」
店内に掛かった時計を見上げる千明の声は華やいで聞こえた。

第4節 切られた欅

 補講や追試、翌月に催される文化祭の準備にと夜遅くまで忙しく追われ続けその週はいとも簡単に終わりを告げていた。欅の助命嘆願に大家へ伺う時間が取れなかった事に一抹の不安が無かった訳ではないが、性急に切り倒すなど考えられなかった。狭い路地を交通遮断して伐採するには道路使用も占用も許可が要る。近隣にさえ迷惑行為のお触れを廻した形跡も無い。未だ説得出来る時間は残されていると高を括っていたこともあった。
 週末までの疲れが意識を熟睡の奈落にさ迷わせたのか、目を覚ましたのは10時を過ぎてチェーンソーの金属音に混じり激しく揺さぶられる樹々の葉音によるものだった。雨戸の隙間からは強い光が射し込み下着に汗が纏わり付いている。村上は咄嗟に何が起きているのか想像に難くなかった。音は広い屋敷の至る所から聞こえてくる。手探りで枕元のズボンを引き寄せシャツを着込むと慌ただしくアパートの玄関口に走って行った。外へ飛び出し眼にした光景は異様としか言いようが無かった。屋敷の四方を囲んでいた低木の楓や松と言った生垣はことごとく切り倒され、面した道路には数珠繋ぎになった搬出車両の列と住民達の呆気に取られた顔があった。中庭に植えられた柿や栗の樹さえ引き抜き押し倒され、更には毎朝日課のように声を掛けている欅の巨木には足場が取り付けられていたのだ。数名のとび職は身軽に体をくねらせより上部へ支柱を組み立てていく。狭い道路越しからクレーンの先端が欅の頂上に近付いている。母屋やアパートには伐採した重量物の落下から屋根を護るための防護ネットが次々に掛けられていった。呆然として見ている村上の前へ革のブーツに鳥打帽を被った大家が歩み寄ると、
「村上さん、残念だが樹は切り倒す。近々アパートも取り壊すことに決めた」「この敷地に鉄筋の賃貸住宅を建設することにしたんだ」「これも税金対策で止むを得ない苦渋の選択なんだよ」「村上さんたちには済まないがアパートから出て行ってもらいたいんだ」
大家は悪びれもせず欅を見上げながら話しかけている。村上の表情は一瞬険しくなったが勤めて穏やかに振舞う。寧ろ哀願する口調で訴えていた。 「大家さん、税金対策だろうが賃貸住宅だろうが構わない。だが、この欅を切るのだけは思い止まってくれないだろうか。私に取ってはかけがえの無い樹に思えるんだ」「どうかお願いします」
人に頭など下げたことは無かった。嫌ならどうとでもしろと言わんばかりの横柄さはあっても、進んで懇願などした試しは見られなかった村上が眼を潤ませ頼み込んでいる。
「村上さん、どんなにお願いされても無理なことは無理なんだ」「敷地の中途半端なところにこんな樹が有っちゃ何も出来ないんだよ」
「それにこの樹は大分年をとっている。この間専門家に見てもらったんだがもうそれほど長生きはしないらしい」
大家は握られた手を払い除け鳶の頭に合図を送っている。やり取りを見ていた年配の頭は合図を受け取ると、無表情で若い鳶に枝を切り始めるよう指示を下した。トビが足場に飛び移って、チェーンソーが唸りを上げた途端、村上は叫んでいた。
「切るのは止めろ。誰にも切る権利なんか無いんだ」「切らないでくれ」
叫び声はチェーンソーに負けてはいなかった。集まった近隣の住人達も大家と村上の諍いを不安そうに見守っている。若い鳶は一瞬躊躇して頭の方を向いたが姿勢を立て直すと太い枝に唸る刃先を立てていた。村上は樹を護りたい一心だった。足場の支柱を無我夢中で激しく揺さぶり振り落とそうとしている。唸りが途絶え人が転げ落ちる鈍い音がして、男達の罵声と共に数人の拳が村上を襲ったのだ。再び作業が開始され鳶達は足場に飛び乗ると枝を落とし始める。頭や鼻から血を滴らせ傷だらけになりながらも起き上がると、
「切るな。切らないでくれ」と何度も叫んだ。上を向いて叫ぶ声は擦れて小さくなっていった。村上の体が仰向けに崩れ落ちた時だった。欅の葉がはらはらと舞い落ちて来る。数を増し地表に降り注ぐ。さらさらと音を立てて一面に衣を脱ぎ捨てていく。鳶達も大家も近隣の住民達も葉を落とし始めた欅を見上げる眼は怖がっている。既にチェーンソーの唸りも引きつった声も聞かれない。村上は腫れ上がった目を見開き擦れて聞き取りにくい声を上げていた。
「今の時期に葉を落とせばお前は冬を越せなくなるんだぞ。葉を落とすな。頼むから落とさないでくれ」
悲痛にも聞こえる村上の叫び声だけが響いている。横たわる村上を埋め尽くすほどに舞い落ちてくる葉の勢いは止まらなかった。梢から剥がれ落ちて、暗かった樹上に明かりが射すと舞い落ちてくる葉は光を浴びて金色に染まっていく。生き物のようにひらひらと陽を浴びて落ちてくる葉は、地表に達すると次第に黒ずんで動きを止めていた。褐色の幹や枝が日に曝されて付いている葉が数えるほどになった頃、意識が遠退いていく村上にそれは見えたのだった。そこには少年時の社の森で会った2枚の羽を持つ精霊が目映い光を放ちながら上空へ舞い上がっていく姿があった。

第5節 残された思い出

 目を覚ますと雨戸は開け放たれて何時にない明かりが入り込んでいる。体中に痛みはあったが起きられないほどではなかった。枕元に置かれた洗面器には浸けられたタオルが赤く滲んでいる。時計を覗くと定刻は過ぎていた。支度を整えアパートの玄関口に出た村上の眼には、伐採を終えて綺麗に整理された敷地が広がっている。急ぎ足で駐車場へ向かう。車を走らせ並木を右手に見ながら小さな公園の森を過ぎて突き当たりの校門に滑り込んでいった。村上が入室すると職員会議が始まる直前だった。
「村上君が遅刻とは珍しいね」「先週は行事の準備で忙しかったからな」
老教師は目を細め労っている様子に思えた。
「そのお顔は如何したんです」「もう若くは無いんだから気を付けないといけませんよ」「何処で羽目を外したのかしら」「何時までも独身でいると良くありませんね」「もし良ければいい人を紹介しますよ」
職員室に笑い声が起こった。
先週までは何かに付けて目くじらを立て非難していた女教師陣からも村上を気遣う言葉が掛けられていた。不安定な気分で着座した村上は、定例の会議が始まろうとして初めて左の隣席に居ない事に気付いた。
「千明先生が未だ見えませんが今日はお休みですか」
声を上げた村上は怪訝そうに見返す集団に、言われようのない失望感が広がっていった。どの眼も心配そうに覗いている。
「村上君、どうしたんだ。千明なんて先生はこの学校には居ないよ」「未だ眼が覚めていないか、打ち所でも悪かったのかい」「余程憧れている女性のようだが」
笑みを浮かべて冷やかし半分の老教師に、職員室は再び笑いの渦に包み込まれたが、厳めしい面持ちで入室してきた理事長に気付くと雑音は止み職員会議が始められていた。 
  老教師の言葉は村上を呆然とさせていた。裏付けるように、隣席の整然とした机上には千明の痕跡さえ見つけられない。主を欠いた空席は誰も座らぬまま長い時間が過ぎていると言った寂しさが感じられた。ピエロを引き連れ浮き立った弾む心はもうそこから消えている。何もかもが一度に頭の中に押し込められている。少年時に遭遇したお社での出来事も国語先生の話が浮かんできたこともあった。通勤時の森で見たあの薄汚れたTシャツに目の輝いた子供が誰だったのか分かった気もした。ときめいて過した憧れも2度と再び現れることは無いと悟っていた。精霊がくれた機会に成しえなかった事、それは国語先生が言っていたことだった。
「色や匂い、音楽の3つは体験出来た。それも他の人まで」
「でも、千明さんの脹(ふく)よかな温もりとレモンの味に踏み込む時間が足り無かったのは残念だった」「思い出にしかならなかったことを後悔はしない。これも宝物さ」
村上は小さく呟いたのだった。

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