「 鏡 」

第1章  現代の悲しい会社員
  いつもと違う朝

 今日もまた憂鬱な朝がやって来た。起きたくない沈んだ気分に追い討ちを掛ける昨夜の深酒が残って朦朧とした脳に、嫌なくらい頭痛が走り足取りもたどたどしい。一時の鬱憤晴らしは酒でごまかしは効くものの、解決にならないことくらい百も承知しているが飲まずにはいられないときもある。洗面台にたどり着くと、はきそうな衝動に駆られながらも歯を磨き、やっとのことで顔を洗い冷たい滴をタオルで拭う。顔には未だ拭き足りない水滴が残るが、顔や手を振り動かす勇気さえ頭痛の前に萎えている。虚ろな目で正面の鏡を覗く。以前の嬉々として自信に溢れた気概は消え、憔悴しきって頬のこけた中年の顔があった。
「何故俺の新商品は駄目なんだ」
「寝食を忘れ長期間市場調査やフィールドテストをして好結果が出ているにも拘らず」
「俺の嫁や子供が仕事と何の関係が有るというんだ」
「気に入らなければ直ぐ感情的に怒鳴り、話を聞く耳も持たない」
「全く己は何様のつもりだ。馬鹿野郎」
鏡に向かい昨夜の愚痴が尾を引き、つい口から漏れた。相変わらず続く鈍痛と吐き気が一緒になって脳を襲い、それが幻覚を見させているのかと目を瞬かせた。そんなことはあり得ないだろうと鈍くなってくたびれた脳をもう一度刺激してみた。鏡に向かい映っている自分に自嘲とも取れる独り言を吐いたのだ。
「お前は馬鹿なのか」と。
咄嗟に脳の痛みは吹き飛んだ。というよりも痛みを忘れさせるほど驚き、僅かな恐怖心と何故だろうという大きな疑念が脳を支配したからだ。矢張りさっき見たものは現実なのだと。喋った筈なのに鏡の自分は口元さえ動かさず無表情に向き合っている。そういえば何となくいつもの鏡とは違う。鏡全体が薄暗いし、写っている自分の後ろがぼんやりとして焦点のない背景に変わっている。鏡に顔を近づけてみる。が、写っている自分は微動だにせず凝視しているばかりだ。僅かな恐怖心は疑念を跳ね除け次第にその割合を大きくしていくが、目を逸らすことが出来ない。
見合っているうち鏡の口元が動き始めた。
「そんなに嫌な奴は撃ち殺せば良い」
こもって聞きにくい響きは以前録音テープで聞いた自分の声と似ている。腹立ち紛れに拳銃でもあればそいつを撃ち殺してやると思ったことはあるが、現実にはそんなものはないし入手方法さえ分からない。そんな潜在意識がこんな錯覚を見させているのかと感じた。しかし、こもった声は続いた。
「これを使え」
声と共にカチリと硬質音を立て乳白色をした、勾玉を思わせる物体が洗面台に転がり出た。手に取ると手のひらに収まる大きさでは有るが、持っている重量感がまるでない。滑らかな丸い握りの先端は尖ってはいるものの突き刺さる恐怖感はなく、変形した銃にも思われるが引き金もない。こんな妙なものは今まで見たこともなければ聞いたこともない。
「どういう風に使うんだ」
顔を上げ、鏡を覗き込んだ。が、そこには既に無表情に凝視する自分はなく、唖然とした顔が向き合っていた。鏡はいつものように明るい光を返し、背にした狭い洗面室の壁紙の模様を鮮明に映している。思わず辺りを見回し手に視線を落とした。今まで何かをつかんでいた形を残し手のひらは虚ろな時を過ごしている。今起こった事は幻覚だったのか。そこいら中を見回しそれが落ちている形跡もないことが分かるにつれ、先ほどまで無感覚だった頭痛が襲ってきた。
「参ったな。一種の逃避症候群か重度のノイローゼにでも掛かったんじゃないんだろうか」
「余計痛くなった気がする」
頭を左右にゆっくり振り、痛みの程度を確認すると「酒はもういいや」と呟きながら洗面室を出ていく。傍に吊り下げられたワイシャツに袖を通しながら台所へ向かう。テーブルには食事が用意され味噌汁から湯気が上がっている。深酒を窘めるカミさんの小言も上の空に朝食に箸をつけるが喉を通らない。 小言が追い討ちを掛けてくるが、今日はそんなことに構う気にもなれない。慌ただしく家を出ると新興住宅の立ち並ぶ路地から駅へ向かい青ざめた面持ちで歩を進めていく。
「全く内のカミさんは小言の神様か。煩いにも程がある」
ぼやき悩める男の歩く道はまだ両脇を畑地が囲み、そこは青々と芽吹く麦の穂が揺れている。最近、田園に居を構え気分一新を図ったつもりが、近所の些細なトラブルや相変わらずギクシャクした会社の仕事で休まることはなく、かえって心労は増しているようだ。緑に包まれた爽やかな風を心地よく感じるには程遠い。
 長い間使われていた田舎町の駅舎は人口の増加に伴い、こぢんまりとはしているが新しく生まれ変わり、ここに新興住宅街が出来、住環境が良くなったとでも言いたそうに佇んでいる。たかが一キロ程の道程をようやくたどり着くと、待つ間もなく滑り込んできた列車に乗り込む。腰を据えると手提げバッグから企画書やら積算書を引っ張り出し仕事が始まりはしたが、何時もの仕草とはいえ今日ばかりは朦朧とした脳は、休業どころかストライキに入っている。列車の窓に頭を持たせかけ目を閉じると心地よいレールの響きに、何時しかだらしなく口を開け眠り込んでしまった。つかの間の浅い眠りの中に今朝の情景が再現されて来る。鏡の中の自分は更に無表情を越え険しい横顔を見せ、水平に上げた右手に勾玉を握り締め、見つめる方角に目標物を捕らえ照準を合わせている。指に力が入った途端勾玉の先端から太く青白い閃光が弧を描き発射された。
「ガタン、ガタン」
レールの継ぎ目のより離れた所が駅構内にある。ふと目が覚めた。オフィスビルのある駅が近づき一段と高い音に加え、車体の揺れが本能的に体を反応させ降りる駅を知覚させた。無意識の中で足元に散らばった書類をかき集めるとバッグの口をこじ開け無造作に押し込み顔を手でゴシゴシ擦る。擦りはするが頭痛が収まるはずもなく却って気が滅入ってくる。気力を奮い起こし立ち上がった。列車はホーム上に溢れかえる人垣に疾風を浴びせ突入し、ホーム先端にコクンと停車すると大量の人を吐き出す。人の波に揉まれ押し出されるように歩き出すと次第に何時もの闊達な歩調が戻ってきた。


切れた堰と勾玉

 勤務するオフィスは駅から数分の所に、そこは高層ビル中程の階を占有し、1,000㎡程の床面積に120人の精鋭が働く中枢である。生産工場は各地に点在し事業規模は業界の上位をうかがう勢いを見せ、その分、社の意気込みも高く個々の競り合いは熾烈にならざるを得ない。自己の能力を存分に発揮するばかりでなく、随所にアンテナを張り巡らせ知識やノウハウを貪欲に取り込む。社に貢献し存在をアピールする方法が幾つかある中で、営業企画開発課に属する彼には、新たなニーズの発生を呼び起こす新商品が永続的に社を牽引すると言う信念を抱かせ続けはするが、決して他を排し独善的に自己主張するものではなかった。この国に鉱物資源や第一次産品を輸出できる恵まれた環境にないことを、子供の頃から亡き父に事ある毎に言い聞かされてきた。繁栄を維持するための唯一の方法は新たなニーズの基となる製品の開発であり、国外からの外貨の獲得には必須条件であると。
ビルの入り口には制服姿の数名の警備員が足を広げ手を後ろに組み、入る者の風体をチェックしているが、余程の事でもない限り身分証の提示を求めはせずビルの保安管理体制を誇示するばかりである。十数基は並ぶ高速エレベーターの一基へ乗り込むとノンストップで25階へ駆け上がる。未だ早く、人気のない開発課の2列に並んだ一席に着座する。課長側の上席が彼の長い間の指定席でもあり固定席ともなっている。出世欲が無い訳ではないが得心の行く開発が出来ていない事情もあり現状に甘んじている。本来闘争心は人一倍強くもあったが、年を経るにつれ角が取れ丸みを増しつつあった。
「相変わらず朝だけは早いな」
横柄な言葉が目の前を通り過ぎ課長席に腰を落とす。俯いて頭痛にゆがむ顔を上げると先崎課長が珍しく悠々と出社してきた。
「あ、おはようございます。今朝は何時もより早いですね」 互いに儀礼とはいえ言いたくもない、聞きたくもない心情は声の微妙な抑揚に見て取れる。幼い頃から組織や集団の中で協調性を強いられて来た働く団塊は、その面影を今に色濃く残している。が然し、何時の頃からか職制上下による人権の蔑視が芽生え蔓延るようになって久しい。
早々と出社した課長は座付きのゆったりした椅子の背に仰向けに寝そべるように身を持たせ、浅く腰をかけ組んだ手を首に回し、机に脚を投げ出し天井を睨んでいる。
「ちょっとこっちへ来い」
唐突に呼びつけた。開発課には他に出社している者はいない。立ち上がると課長席へ歩み寄る。
「何でしょうか」
姿勢を崩す風もなく歩み寄った相手を見るでもなく、職制上下を誇示せんがためのポーズとも取れる間合いが過ぎる。
「今日、朝からお前の企画開発について関係部署へプレゼンテーションを開く。 準備は良いな」
相変わらず自分勝手に物事を進めるものだと内心冷めた見方で応接した。
「先日、指示のあった設備投資資金の見直しを進めており、もう少し時間が掛かります」
「配慮を頂き感謝致しますが、あと一週間猶予を考慮願えませんか」

「何を考えているんだ。何もお前の都合で会社が動いている訳じゃない」
「経営環境は日々刻々変化している。競合他社の動向も重要なファクターぐらい知らない訳はないだろう」

「しかし、プレゼンテーションに必要な骨子となる資金計画の圧縮は短時間では算定出来ず、製品コストまで遡らざるを得ません。一昨日の指示からでは到底間に合うものでは有りません」
「じゃー聞くが、何のために会社へ来てるんだ。企画開発とは、色々想定した上対応できなければ子供と同じだ」「何年この課にいるんだ」

「この企画を提案し、当初承認を得た計画金額をクリアーするため技術革新には、かなりの時間と労力を投入し、設備費には出来る限りの圧縮を図ったつもりです」「それをたった2日で変更することなど至難です」

「何時まで幼稚なことを言っているんだ。一々言わなければ何も出来ないのか。 先を見越し計画を遂行するにはどうしたら良いのか、必要に応じ随時報告すべきだろう。場当たり的に物事を対処しようとするから常にまごつくことになる」

「しかし、当日の予定くらい前もってお話頂いても良いのではないですか」 「私としても徒に手をこまねいていた訳ではなく、設備費をどう削減すれば良いか業者と協議を急いでおります」
「理屈を言うのは簡単でも、作業を組み立て実施することは、それこそ容易なことではありません」

「小生意気なことばかり言うな」
「言われたことを正確に迅速に処理することが、藤井、お前の仕事だ」
「俺は、別にお前が最後のチャンスをフイにしようが構いはしない。理屈をこねるだけが能じゃないだろう」
「何時も、何時も、この俺に突っかかるのは余り得策とは思えんがね」
>br> 相変わらず目も合わせず無視し続ける態度で言葉を終えた課長のほうへ急ぎ足で向かってくる者があった。
「おはようございます。遅くなりました。急な打ち合わせが出来まして時間を取られました」「車は下に待たせてあります」
振り向くと社に長く出入りをする、下請け業者である、米長社長が息を弾ませ近寄ってきた。この男、先崎課長とは古い付き合いがあり、何かときな臭い噂が絶えないと同僚から聞いたことがある。何でも、企業は男の純文学とか叫びながら、砂丘を裸で走り回ったと言う変わった人物でもあるらしい。
課長は机から脚を下ろし今までとは打って変わり愛想よく笑みを浮かべ迎える。
「忙しい中ご苦労さんです。今日は特に天気もコンディションも上々でいい日和になりそうだ」
いかにも楽しそうに振舞う。
藤井は両者の会話に挟まれながら憮然と立ちすくんでいたが、いきなり矛先が向けられた。
「藤井、知らない訳はないだろう。幼稚園児でもあるまいに。挨拶ぐらいしたらどうだ」
「コイツは会社一の愚図で全く俺も手を焼いているよ。米長さんの所にはこんな奴はいないだろうがね」
課長はしかめ面ではき捨てるように言った。人前で侮辱を受け藤井の目付きが険しくなっていく。それを嘲笑するように更に追い討ちを掛ける雑言が飛んできた。
「お前の嫁も何を考えているのか分からん」
「誰が俺の家の引越しを手伝ってくれと頼んだ。課員に声は掛けたがお前を呼んだ覚えはない。大きなお世話だったよ。詰まらん気を使われたんじゃこっちが気を使うことになる」
「全く夫唱婦随とはよく言ったものだ」
今まで抑えていた理性が急速に砕けていく。何が今日に限ってプレゼンテーションだ。最初からゴルフに行く予定だったくせに。単なる嫌がらせだったのか。うちのカミさんだってお前の引越しの手伝いなんかしたい訳じゃない。・・・
自分以外に触れられ感情は怒りの渦に包まれていった。指先が小刻みに痙攣するのを覚え、心の中で落ち付けを繰り返す。無意識のうちに怒りを悟られまいと背広のポケットに手を入れた。すると何か硬い丸いものが手に触れた。手を引き抜き視線を落とすとそこには今朝、洗面台の前で見たあの勾玉が右手に握り締められていたのだ。
課長は、今日こそは徹底して懲らしめてやろうと考えたのか、トドメを言い放った。
「お前はこの会社に向いてないんだよ」
この言葉に藤井は厳しい眼差しで感情を顕にし、課長に向け勾玉を突き出していた。
「お前こそ居なくなれ」
叫ぶと同時に思い切り勾玉を握り締めた。瞬時にその先端から青白く太い稲妻が弧を描き先崎の胸めがけ発射された。稲妻は先崎の胸を貫き通し、背にした白い壁に大きな風穴を開けていた。胸を撃ちぬかれ、衝撃で仰向けに飛ばされた先崎の顔は蒼白に見えた。余りの事態に藤井は顔色を失い、天井に顔を向け横たわる先崎に視線を落とし、唖然と立ちすくむばかりであった。僅かな間をおいて、だらりと下げた右手に握られた勾玉から白色光が放射され始め、それは次第に輝度を高め部屋中に拡散しく。輝きは一層視界を遮り強烈な白色の世界を作り出していった。
藤井は余りにも眩しい光に、吸い込まれるように意識が薄れその場に倒れこんだ。


藤井の出世

 遮光カーテンの合わせ目から漏れた一条の光が、枕元に開いた本の上を斜めに白線を引いている。何時になく身体の節々が痛む。すっきりした目覚めとはいかないが、重苦しい感覚はない。意識が鮮明になるにつれ昨日の有様が呼び戻され跳ね起きた。カーテンを荒々しく開け放つ。
「何故俺はここにいるんだ。とんでもないことをしたのに」 「一体どういうことなんだ」
見慣れた寝室やガラス越しの庭に視線を走らせながら頭を抱え込んだ。
「会社じゃ大変なことになっている筈だ。事情を説明し警察へも出頭しなければ周りに迷惑を掛ける。罪を償い遺族へも謝罪に行かなければ」
「うちのカミさんには何と言ったら良いんだろう」
あれこれ模索するがゴチャゴチャになるだけであった。考えても始まらない。立ち上がると身支度を整え身辺整理をするため出社することにした。
「折角作った食事くらい食べて行きなさいよ」
相変わらずの小言を背に家を後にする。
気が付くとオフィスビルの前に立っていた。覚悟を決めて出てきた筈が、前途に広がる厳しい現実を見つめると脚が竦み、逃避したい衝動に駆られる。しかし、この団塊には嫌というほど『道徳』教育が身に染み付いているらしく、逃げるという概念を持ち合わせてはいないようだ。彼の定刻には少し早いオフィスは当然のごとく誰も見当たらない。指定席へ腰を下ろし、何の書類から整理しようかと机の引き出しを開けようとした。今まで自分の机ではあっても鍵など掛けたことはなかった筈が、どの引き出しもロックされている。そういえば机の数や配置、書棚や備品の位置が微妙に違う。昨日とは何か様子がおかしいのだ。昨日のことはありありと思い起こすことが出来るのに、この状況が何時からなのかいくら考えても出てこない。
突然後ろから声を掛ける者があった。
「おはようございます。課長、どうしたんですか。私の席に座っているなんて」
聞き覚えのある声に振り向くと、何と先崎がにこやかに近寄って来るではないか。驚いた表情で見返す藤井に向かい、先崎は事もなげに然し丁寧に続けた。
「課長、自分の席へお願いしますよ。急ぎの仕事が溜まって今日は早出をしたんですから」
早く退いてくださいと急き立てる。藤井は慌てて立ち上がると、前に先崎がいた課長席に顔を向け更に目を疑った。机に置かれたネームプレートには自分の名が刻まれているではないか。藤井は訳も分からず混乱する頭を修復することも出来ず、ふらつく足取りで課長席へ近寄るとストンと落ちるように座った。顔に手をあてがい、前髪をかきむしる仕草を繰り返し、必死の形相で何故こうなったのか、その経緯を思い出そうとした。しかし、焦れば焦るほど記憶の螺旋を辿るどころか白色の迷路に落ちていく。
藤井は考えることを諦め、取り敢えず様子を見ることにした。片腕をたたみ、もう一方は顔に手をあてがい、目を閉じて心を落ち着かせる。どの位経ったのか、ガヤガヤと出社してくる人達の喧騒がフロアーに響いてくる。習い事が上達せずぼやく声、居酒屋でのトラブルを声高に訴える人、昨日のスポーツ紙の結果を評論しあう人達で賑わう。暫らくは会話が行き交っていたが、業務開始時刻には雑音は消え、作業の打ち合わせや取引先、関連会社との電話対応で日常が始まった。しばらくすると藤井の机に向かって女性特有のヒール音が近寄ってきた。
「お早うございます、課長。如何しましたか。顔色が優れないようですが」
藤井は深く暗い淵に落ちそうになっていたが、掛けられた声に思わず顔を上げた。見ると秘書課の清水女子であった。爽やかな笑みを浮かべ小脇に数冊のファイルを抱え、モデルがするようにすらりとした片足を重心の前へ出し、慣れたポーズを作り出している。藤井は今までこの秘書課一の美貌と才媛に声を掛けたことすらなかった。どう応えて良いのか迷った挙句、誰もがするであろう当たり前の答えを探した。
「お早うございます。少し考え事をしていただけで問題はないです」
女子はこの答えに小さく握った拳を口元に当て、クスッと笑いながら悪戯っぽく見返し、直ぐ真顔に戻ると用件を伝えた。
「青野常務から2日後のレセプションに出席するようにと連絡がありました」
軽く会釈をすると軽やかに引き返していく。焦点の定まらぬまま見送る視線の中で誰の、何のと自問を繰り返すうち、脳内を破裂させんばかりの膨大な情報が湧き出し気を失いかけた。徐々に平静を取り戻す頃になると、はっきりその理由が頭に組み立てられていたのだ。何処の会社にもあるように、この会社にも対立する派閥が二つある。一つは加藤専務派、もう一つは青野常務派であり藤井への招待とは派閥への招請のことであった。これまで派閥に属する等考えたこともなく、そういった声を掛けられることもない身にとって驚きですらあった。社内の噂では加藤派の豪腕、重戦車イメージに対し、青野派は学究的とか研究派として知られ対照的といわれている。藤井としてはどちらに与する訳でもなくどうでもいいことのように思われた。それよりも何故瞬時にこんなことが分かるようになったのかが不思議でならなかった。
一時のざわめきが遠のき、資料を作製する数人がコンピューターに向き合黙々と作業を進め、他の課員は既に外に飛び出している課内を見回すうち、少しずつ気持ちに余裕が出てきたのだろうか、机の引き出しを開けていた。ぎっしり詰まったファイルの一つ一つには紛れもなく、自筆の文字が背表紙を埋めこの席の主を表している。覚えのあるファイルに混じって初めて目にする新しいファイルも散見できる。取ろうと身をかがめた途端、机の電話が鳴った。
「藤井です」
一冊のファイルを手に身を起こしながら取り上げた電話に答える。
「佐藤だ。開発課の四半期収支を早急に提出してくれ。それとアドバルーンになる斬新な実施企画案を社外向け資料として準備してくれ」
用件を告げるなり返事をする間も与えず一方的に電話を切った。佐藤とは藤井の直属の上司で営業企画開発課を含む取締役営業部長である。繊細な顔立ちの中に緻密な頭脳と大胆な発想、行動は社外にまで鳴り響き一目置かれる存在であった。俗に一秒間に一億と三組の手法を編み出すとも言われ、その論理的構想力は群を抜いていた。藤井は、四半期収支はともかく、後の指示が何を意味するのか全く分からず考え込んだ。先ほどのように情報が湧き出すこともなく気分が悪くなることもない。
「今日は一体どうなっているんだ」
呟きながら手にしたファイルを開いて驚いた。前々から暖めていた、彼の頭の中だけにある筈の企画が既に企画書として完成しているではないか。
そういえば何故自分が課長職をしているのか不思議な気がした。再度机の中を隈なく探り、分厚い一冊を取り出した。それは昨日まで先崎と言い争いをしていた、未完成である筈の企画書であった。添付された財務諸表を見て更に目を見張った。それは既に完成しているばかりか製品として販売もされ、社の主力製品になっているからだった。背表紙に書かれた「ゲノム解析疾病予見ソフト」の文字は装丁がしっかりした重要ファイルに相応しく、盛り上げ造りの漆塗りに黒く輝いている。初めて見るように一枚一枚読み進めていく。作成目的から膨大な医療資料の集積と分析、ソフト開発の過程など詳細が記されているが、心臓部となるノウハウは社の保管庫に収められているらしく、肝心の光ディスクは見当たらない。昨日まで没頭してきた内容なだけに完成までの経緯にはさほどの新鮮みはなく、発表用と思われる文書の語句に多少の訂正が目に付くだけであった。ただ、財務諸表による販売後の収益の高さは少なからず驚きであった。長い社歴の中で見たこともない金額が計上されている。販売先は医療、製薬を問わず様々な企業や研究機関に受け入れられ国内外を席巻している。 このソフトの特徴は藤井システムとも評され、特殊で複雑な暗号キーがあちこちにちりばめられ、コピーはおろかソフトの中を覗くことや編集改ざんすら出来ない、即ち一ソフト一ユーザーが最大の持ち味になっている。そもそもこのソフトはゲノム解析を基に、人遺伝子を形成する細胞の組み合わせから疾病症状、正常臓器の異変等を迅速に予測し、病める人及び予防医療の発展を期待し開発したものであった。現在は人にのみ適用するソフトであるが、動物や植物にも応用が効くとされ、医療機関、臓器製造会社のみならずバイオ関係機関も主要なユーザーの一覧に名を連ねている。
思わず藤井の顔に今まで癒しきれなかった何かが、ジワッとこみ上げてくるものがあった。
「これが俺の昇進理由か」
「今までの苦労の甲斐がこれか」
藤井の頭の中は、一つの課題が達成できていたことに、全ての悩みや不満が消え去っていく清々した充足感が広がって行った。少しずつ時の経つごとに自信と将来を見越す才知に酔う穏やかではあるが、今までとは違った表情がうかがえた。若かりし頃の生き生きとした不可能に挑戦する眼差しが落ち着きを備え戻っていた。
「課長、気分はいかがですか。顔色が戻ったようですね」
早朝から忙しく机に向かっていた先崎の声が聞こえた。
「ああ、大分すっきりしたんだが、未だはっきりしない所もあるようだ」
「ところで課会議は何時頃したんだったかな」

「そういえば課長が忙しく暫らく途絶えております」
「そうか、じゃー皆に伝えておいてくれないか」
「明日までに今抱えている案件と今後生ずる課題について報告書を提出するように。それと急なんだが、課の四半期収支報告書作成とその増減となった理由項目を拾い出し、将来への予測を分析してもらいたい」
「済まないが至急作業に取り掛かって欲しいんだが」

「分かりました。出先の課員には連絡を取ります。それと収支報告書はこれから直ぐ作成に掛かります」

「頼むよ」
そう言いながら、藤井は総務の仕事が含まれているにも関わらず、快く引き受ける先崎の顔を、今までとは違う意味を込めて見返した。
その日の藤井は失われた空白の時間を埋められないまま、次々に入ってくる商談の電話や見覚えのない賓客の応接に追われ忙しい一日が過ぎていった。


妙な風と懐かしい旧友

 慌ただしい中に業務が開始され、この日も引っ切り無しの来客に追われていた。その中に藤井の旧友であり学友でもある三浦が、数十ページにも及ぶ資料を前にして、真剣な表情で向き合う藤井に何やら秘密めいた説明をしている。彼は卒業後間もなく興信所を開設し、この都市部では大手の存在に急成長し信用度も高い評価を得ていた。
話を聞き終えた藤井は顔を曇らせ、
「参ったな」
ポツリと一言呟くと腕組みを崩さず、暫らくは声も出ない様子であった。
三浦は心配そうに、
「何時頃その新企画書を部長に出したんだ。その後何か社内に変わったことでも有ったのか。」
藤井は資料に目を落としたまま、数日前に佐藤部長からの指示があったことやその後、会社の株価が急上昇している事等を弱々しく話した。
「そんなに心配するな。業務上の指示を遂行しただけなんだから。」
元気付けようとしている三浦の声に、藤井は力なく頷いた。
「俺はこれから得意先との打ち合わせがある」「何かあったら直ぐにでも連絡をくれ。最大限の協力はする」
余程切迫している用件があると見え、三浦はそそくさと席を立っていった。
「少し軽率だったかも知れんな。会社のイメージアップだけの為にしては反響が大きすぎる。三浦の調査が確実なら厄介な事になりそうだ。」
藤井の頭の隅に疑念が渦巻き始めた。しかし、いまのところ会社への実害があったわけではない。
「当面様子を見ることにするか」
納得できるはずもないが、こう言い聞かせることで山積する優先課題を先決処理して行こうと考えた。時計を覗き三浦の持参した資料をロックの着いたケースに仕舞い込むと、待たせている次の来客の元に急いだ。
 昼前には何とか予定の接客をこなすと、昼食もそこそこに部下の神谷を連れMメッセへと向かった。そこでは情報技術機器の展示とシンポジュームが開催されており、彼に招待状が届いていたからだ。会場には既に数千人もの来場者でごった返し熱気が渦巻き息苦しささえ感じられた。以前からこのシンポジュームは知っていたし、一度は見てみたいと思っていた矢先に舞い込んだ吉報であり胸躍る興奮もあった。企業戦士にとっては社会での活躍に対する評価と称されての招待なのである。初めての招待者は写真に収められ、会員番号を付した会員証が交付されると毎年の参加が約束される。主催は主要企業が設立した技術開発普及事業団と国であり権威は国内でも最高位に上げられ、選ばれた企業にとっても個人にしても栄誉な事であった。
「神谷君、来年は君も会員証が貰えると良いな。随伴者枠での参加では研究発表はおろか発言力にも制約がつき物足りない筈だ」
「是非とも頑張ってもらいたいんだが」

「課長、簡単に言うけどそう生易しくないよ。それなりに努力はしてるけどね」
答え方はぞんざいであったが藤井にとって一番期待している部下であり、何より率直な意見を飾らずストレートに話すところが彼の信頼を大きくしている。 決して他に迎合することなく、白黒決着に終始する余り大人気ないと敬遠気味に疎まれることはあっても、親しく付き合う者などいない。何事にも真正面からぶつかる気概は何物にも変えがたい資質と藤井は希望を持っている。
「課長、見たい展示コーナーがあるんだけどそちらへ行っても良いですか」 「2時間後にここで落ち合うことで良いですね」
言いたいことだけ言うと、藤井の都合も聞かず人混みに消えていった。
「全く相変わらずな奴だ。もう少し気配りの勧めを教えないと後で厄介を背負い込むだろうな」
そう思いつつも、それが彼の特徴でもあるわけだから仕方のないことかもしれないと、消えていった先を見送った。
受付で手渡された案内には、沢山のブースと分科会場が網羅され、短時間では到底見聞きできるものではない。決めていたブースへ直行する。入り口には案内嬢が耳まで覆い隠す、頂部にアンテナの付いたキャップを入場者に配りながら、このブースでの実験参加を勧めている。足を踏み入れると大勢の参加者がドーム状の広場で賑わっている。中は驚くほどの広さと高さがあった。見るとドームの壁に沿って二十数メーターはある薄暗がりの天井に向かい、木々の小枝のような細い管が密集している。四方から伸びた小枝の先端は集められ、膨らんだコブに結ばれている。コブはドーム全体に均一に垂れ下がり数え切れない程点在しながら、生き物のように収縮を繰り返している。時折ドーム下部から枝を伝って赤や青、オレンジといった幾種類もの光がドーム上部へ駆け上がっていく。光は途中のコブに突き当たると、吸い込まれるように複雑な色に変化を繰り返しやがて元の黒色へと変わっていく。その度にコブは成長し膨らみを増していくようだった。ドーム下部から光が立ち昇ると、コブは大きく瓢箪のように垂れ下がってくるが、ゆらゆら、ふわふわとした柔らかそうなそれは、さほどの重みは感じられない。
「一体あれは何なのだろう」
ドームの端で天井を見上げていた藤井は思わず呟いた。
暫らく見上げているうち静寂を破り唐突に呼びかけられた。
「藤井さん、ご無沙汰しております。必ず来ると思っておりました」
軽やかで屈託のない快活な声の主は、懐かしさと共に学生時代の友人を思い起こさせた。 薄暗いドーム内を見渡しこちらを向いている者を探す。しかし、それらしき人は見当たらない。
「目で探しても無駄です。心で探してみてください」
「意識を周囲に同化させるのです」
懐かしい声が再び呼びかける。
藤井は目を閉じ言われるままに気を静め、自我の意識を払い何も考えまいとするうち、瞼に広がってくる明るい光と今までにない、ゆったりとして広大、且つ奥深い空間を感じた。
「この大きさは、自分の思考範囲をはるかに超えている」
「何とも壮大で清々しい心持だ」
藤井の口から思わず感嘆の叫びが上がった。
「藤井さん、お久しぶりです。ようこそ森下ワールド共有界へ」
声に合わせ広がっていく光の彼方から、小さな黒点が急速に近づいてくる。黒点は一瞬のうちに人の形を成し輪郭を鮮明にしていく。それは紛れもない学友であった。白い空間を背に年を経てますます精悍な顔つきは、青春時代の面影を残しながら目元には優しさが現れている。
「やあ、何年振りだろうか。変わらないね」
驚きを交え藤井の表情にも懐かしさと久しぶりの友人に会えた喜びが満面に滲んでいる。
「何年どころではありませんよ。もう30年は過ぎています」 「ところで藤井さん、大変なご活躍らしいですね。忙しいところを来て頂き恐縮します。何より元気な様子を見ることが出来、嬉しく思います」 「私も元気だけは負けないつもりですが体がきつくなりました」
昔からはきはきとした快活でメリハリの効いた口調は今も変わらない。
「以前にある担当から、この共有界の話は聞いていたがこれほどのモノとは思わなかった。完成しているんだろうか」
藤井は驚きと懐かしさが混濁した思いを投げかけた。
「未だ実験室の段階で完成とはいえませんが自信はあります」 「誰もが意識を共有することが出来れば、意思の疎通や理解が早まり自己を正確に認識できます」
「これが使われるようになれば、世界中から無用な争いや揉め事がなくなると期待しています」
森下は爽やかに言い切った。
「この世界は個々がその知能、知識、物の考え方、感じ方をあらゆる方面で同一バーチャル空間内に共有でき、自分にない知識や考え方等が学べます」 「同様に他へ与えることも」
「更には、ワールド内に共存する時間が長いほど、心が浄化される傾向にあります」 「この理由は現在解明中ですが、思わぬ効果もあるようです」
森下の顔には満面の笑みが零れている。
「少し散策しませんか。ご案内します」
彼の背後にはいつの間にか互いに触れ合うことのない、幾つもの色とりどりの光の帯がうねりながら彼方へ伸びている。それは生き物でもあるかのように、膨れたり、捩れ曲がり上下に大きく蛇行しながら遠方へ突き進んでいる。
「行きましょう」
森下は振り返ると緑にうねる光に歩みだしていた。光は呼応するように森下をその帯の中に引き入れ姿を飲み込んだ。
藤井はどうすれば良いのか分からず躊躇していると、森下の快活な声が響いてきた。
「意識をコントロールするのです。光に集中してみてください」
初めて出会ったときが思い起こされた。しかし今度は動の姿勢が求められている。思い切って意識を光に投げ込んだ。余りに勢い込みすぎ光の中で姿勢が保てない。回転しながら凄いスピードで運ばれていく。森下の助けもあって目的地へ着く頃にはどうにか姿勢がコントロールできるようになっていた。
光の帯の先端は広々とした緑の空間を包んでつながっている。その空間に二つの意識は解き放たれ浮かんだ。
「ここは理性の海と呼ばれる無限の空間です。理想とする社会や人間性の根源が主に築き上げられつつあります。多くの人達によって卓越し個性を持った感覚がより良い社会に作り変え、更に発展させ現在に至っています」
「しかし、社会は一つではなく少しずつ変化する一面を持ち、ロール紙に描かれた絵巻さながらの様相を表し、それが多様化した社会として延々と続いているのです」

「そうすると此処からでは見えない遠方の社会は想像すら出来ないものなのか」
「実は私も全てを見てはいないので分かりませんが、思っても見ない社会や人のつながりを構成しているのかも知れません」

「それにしても穏やかで静かなところだ。建物にせよ自然環境にせよ心和ませる要素に溢れている」
「究極の事物には調和があるということか」

「降りて町の中に入ってみましょう」
森下は藤井の意識を誘う。
町並みの景観は近づくにつれ真新しさを見せてくる。複雑な分子構造の組み合わせを模したいろいろな建物と道路、丘陵、緑地の組み合わせが何を表しているのか理解できないが、藤井には宇宙の自然を基調としているように思えた。街の中に人の姿は疎らでゆったりゆっくりと進んでいる。
「人が少なければ争いも少ないということか」
藤井は苦笑した。
「日毎戦う企業戦士には奇妙としか言いようがないでしょうね」 「でも、こう言った社会も良いかも知れません」
競争社会を否定するものではないとしながらも森下は自嘲気味に答えた。
「無機質な建物が動いたように見えるのは気のせいか」
いきなり藤井は森下へ意識を向けた。
「否、気のせいでも何でもありません。この社会は全てが共存している社会です」「全てのモノが領分を理解し役割を担って生きているのです」

「私にはよく分からないね」 理解できず、呆れたように藤井は小声で呟いた。
「この場所の社会を創造している方は一人ではありません。数多くの人達が理想を追い求めています。細部まで見ていると時間が経つのを忘れるほどです。」 森下の説明に暫らくの間言葉を忘れ興味深く辺りを見回し続けた。
どの位経ったか、藤井に対し森下は残念そうな顔で、ブースに戻る時刻が来たことを告げ、連れ立って半ば強制的に緑の帯に乗り込んだ。
「藤井さん、又会いましょう。お待ちしています」「目を開ければドームの中に立っています」
そう言うと森下は来た時とは逆に小さな黒点となり去っていった。
 藤井はドームの共有界に溶け込んで深い意識の交流を続けることに自信が持てず、キャップを脱ぐと汗ばんだ顔を拭った。
「それにしても相当な人が参加しているものだ。それなりに知と智を備えた人達の集まりは驚嘆するものがある」
広い世界の一端を垣間見た思いが、己の存在感を少し薄れさせていったが、持ち前の負けん気は徐々に闘志に変わっていった。
「共有界へのチャレンジはこの次だ。そろそろ神谷君が戻る頃だ。」
天井を見上げる目は心残りを引きずりながらも足は出口に向いていた。


第2章  青い鳥は何処に


       嵐

 この日は朝から肌寒い小雨が通勤を急ぐ傘をぱりぱりと打ち続け、街路に立ち並ぶ樹木は季節外れの厄介者に弱々しく葉をうなだれている。斜めに吹き付けられた雨粒が高層ビルの窓ガラスに幾重もの軌跡をなぞって寒々しい。
ビルの中では慌ただしい動きが始まろうとしていた。
「藤井課長、至急社長室へ来るよう指示がありました」
受話器から徒ならぬ様子が伺える。
「又とんでもない思いつきの命令でも出すつもりかな」
課長職にも慣れ社長の意図が分かりかけてきたとはいえ、全てを飲み込んだ訳ではない。急ぎ足で階上の社長室へ向かう。26階は社長室のほかに役員室、秘書室などが設置され一般社員とは隔絶されている。階段を上りきるとガラス張りの壁面に沿って広い通路が開け社長室は最奥に構えている。通路には高速エスカレーターと階段出入り口の要所に警備員が張り付きちょっとした警戒システムを備え初めての来客には奇妙に映る。警備員の敬礼を横目に突き当たった最奥となる銀白色の壁に到達すると、
「藤井です。7六歩 3四歩。」と音声認識装置に答えた。
壁は瞬時に開き横長の広い前室が現れ、部屋の奥に清水秘書が立っている。藤井はこの部屋に来るたびに緊張感を覚え、その雰囲気から背筋がピンと伸び姿勢が良くなるよう仕組まれている気がしてならなかった。秘書は藤井の姿に気付くと社長室の扉をノックし部屋の中へ通す。彼は部屋へ入るなりただ事では済まないと直感した。そこには上司である佐藤部長を初め十数人もの取締役員達が待ち構えていた。据えられたテーブルの中央には社長も険しい顔つきで睨んでいる。
「お前は誰の許可を取ってこんなことをしたんだ」
第一声は直情型で知られる加藤専務の甲高い罵声であった。ソファーから立ち上がると空咳を連発しネクタイを締めなおし、首を左右に振りながら少し下がったズボンのベルトをたくし上げる。彼独特の仕草は人を威圧する重量感が漂う。藤井の眼は何のことなのかとその理由をめまぐるしく探りながらも居並ぶ重役陣へ注がれた。
「何の不満があって会社を潰そうとするんだ。今日有るお前を育て、それなりのポストも与えてやった。何が気に入らないというんだ」
加藤専務は赤ら顔を更に紅潮させ怒鳴りつける。
「少しばかり会社に貢献したからといって図に乗るな」
「貴様の行為は反逆だ」
滅多に顔を見せたこともない非常勤役員の大声も飛ぶ。次々に彼を非難する怒号が渦巻く中、慌ただしく入ってくる者があった。
「ニューヨーク証券市場は大暴落で終わりました。これから始まる東証、大証への対策を至急ご指示願います。」
総務課長の顔色は失せていた。
「今協議をしていたところだ。」「取り敢えず証券各社に対し会見を開く。全ては事実無根だ。藤井という社員すら存在しない。早急に準備しろ」
鋭い語気が浴びせられる。ソファーの中央から立ち上がった長身の3代目社長は未だ40代の若さではあったが、思慮深く権謀術数に長けた戦略家でもありワンマン経営者の血筋をも受け継いでいる。指示を受けた総務課長は一礼するとあしばやに退室していった。
「お前は懲戒解雇だ」
静かな口調の中にこれからを期待していたとでもいいたそうな視線が藤井に向けられた。
これまで叱責の理由が分からないいまま立ちすくんでいたが、重苦しい雰囲気を払うように口を開いた。
「私にはどのような理由でお叱りを受け、解雇を言い渡されたのか分かりません。その事由を教えてください。」
言うが早くまたもや役員から罵声が飛ぶ。
「何をとぼけたことばかり言っているんだ」
「この記事に見覚えがあるだろう」
藤井の足元に証券産業紙が叩きつけられた。体が緊張しているせいか屈みこんで手に取る仕草もぎごちない。全国紙にもなっているこの新聞を藤井も知っているが一面の見出しには覚えがなかった。
「このような記事の取材を受けたことも、又否定した事実もありません。何かの間違いです」

「しかし、お前の名前が出ているだろう」
別の役員がいきり立つ。
記事の全てを読み終えて藤井は初めて動揺を覚え、血の気が引いていった。佐藤部長に視線を走らせる。部長は窓越しの遠方に顎を上げ、腕組みしたまま微動もせず瞑想している。この騒ぎがまるで他人事のように見えた。
「どうした、藤井。顔色が変わったぞ。何か弁明の余地があるのか」
非常勤役員の一人、勝浦は業を煮やしテーブルを叩いた。
「この記事によって株価が暴落し、会社に多大な損害が出たということなんですね」
藤井の声は次第に小さくなっていく。
「株価だけじゃない。ユーザーや取り引き先から商談の停止や中止が相次いでいる。最早、事実の確認など問題外だ」
非常勤役員は再びテーブルを叩く。
「先ほどもお話しましたが私は決して会社を裏切る行為はしておりません」
「ただ、この記事の一部については心当たりがあります」
「過日、佐藤部長から社をアピールするための新商品企画書を提出するよう指示があり部長へ届けました」
「記事の内容の前半は私が提出した企画書のとおりですが、後半にある新商品の信憑性と商品価値について、否定的な見解内容は私の発言でもなければ文書として出したこともなく濡れ衣です」

「言い逃れをするな。お前以外に誰がこんなことをする」
何と先ほどより遠見の見物を決め込んでいた佐藤部長から反論が上がった。
「お前の言動について管理できなかった俺にも責任はある。進退伺いを出すつもりでいるが責任を転嫁するな」
冷静な話しぶりに佐藤部長を見つめていた他の役員の誰もが佐藤を信じた。
この言葉に藤井は少なからず、否、とてつもなく驚いた。まさかこんな発言がこの人から出ようとは予想もしていなかった。剛直で正論を押し通し、他を打ち負かす手法に感銘を受けた人とはとても思えなかった。何故こんなことに。 目付きが鋭くなっていくのが分かる。急に頭痛が襲ってきた。吐き気と同時にめまいで足元が崩れそうになる。形相は苦痛にゆがみ頭を両手で抱え込む。見つめる役員の中には悪あがきもいい加減にしろと悪口を放つ。ふらつきながら立ちすくんでいると、暫らくしてスーと気分が楽になってきた。すると以前経験した、知らないはずの情報が積乱雲のように脳を埋め尽くした。青ざめてはいるがはっきりした口調が流れた。
「佐藤部長、貴方は私が提出した企画書を証券紙に流し、株価を吊り上げ多額の利益を上げた。その収益は倒産の危機にあった、貴方の愛人が経営する会社の運営資金に充てられた。これ自体問題があるにも拘らず、その後株を買い戻そうとこの記事を捏造し株安を画策した」
「社会的に卑劣な方法ではありませんか」
藤井の表情は険しさを保ち佐藤を見据えた。
「何の恨みがあって私を陥れようとするんだ」「お前の企みは既に俺には分かっている。
佐藤は悠然と構え話を続けた。
「同業他社に森下という者がいる。お前の友人だ。面白い商品を開発販売するらしいな。業界を牛耳るにはお前が開発した暗号キーシステムが最適ということだ」
「まさかこんなことをするとは予想外だったよ。こうまでして恩のある我が社を苦境に落とし、己の出世を図りたいのか」

「私はそんなことまでして恩を仇で返しはしない。社に対する忠誠心は誰にも負けないつもりだ」 「社長はどちらの言い分を信じますか」
きつい表情を和らげることも出来ないまま、奥から睨み返す社長に真意を問いただそうと顔を向けた。
藤井以上に厳しい形相で立ち上がると怒りを露にし、怒鳴り声が室内を蹂躙した。
「誰がお前の言い分など信ずる者がいると思うのだ」
「経営トップの私が指示した仕事を快く引き受けたことがあったのか。いつも何時も講釈を付け批判ばかりしているお前に対し、佐藤部長はどんなことでも二つ返事で引き受けてくれる。それも期待以上の結果を持って」
「私の考えは社の方針でもあるんだよ」「そんなことも分からない者が、どちらを信じるかなど愚問だ」「お前の言い分など聞く耳は持たない」
「何れ刑事事件として告訴してやる。覚悟して置け」
日ごろの鬱憤が爆発したように聞こえた。自分に対するあからさまな激怒への畏怖は、社長が言葉を追えた瞬間に藤井の脳裏から消えていた。それは今まで気付かないでいた、社長の気持ちが伝わってきたからに外ならなかった。そんな目で見られていたことに返って腹立たしささえ感じられた。決して反論するつもりはなかった。自分の正直な心を知って欲しかっただけであった。しかし、口から飛び出した言葉は、取り囲む役員達を更に逆なでしていた。
「社長は神様じゃない。全てが的を射ているとは限らない。与えられた仕事は十分吟味し熟考を重ね、方法論を構築し多方面から情報を収集し実践することが必要であり、失敗のない環境作りをしなければならないのは当然だ」
「時にはこうしたほうが良いのではと具申することは、社員として当たり前であり決して反発心から申し上げているわけではない」
「会社が健全に発展できるのは、ユーザーや株主が信頼を寄せ支えているからだ。順調に業績が伸び安定した事業が続く余り、慢心した気分に浸り方向を誤ってはならないことだ」
「仮に社長が方向を見誤ったなら、軌道修正の舵取りをするのは重役であり取締役である貴方達の職務ではないのか」「保身ばかりに奔走していたのでは職域を放棄するだけでなく会社を潰しかねない」
いい終えた途端、いきなり鉄拳が彼を襲った。社長に一番近いとされる、若い取り巻き重役が、倒れこんで頬を押さえている藤井を見下ろしている。
「生意気なことばかり並べ立てるな。お前には解らない経営の難しさがいくらでもあるんだよ」「今の貴様にそんなことが言える立場か」
この男、社長に対し精一杯の忠誠心をアピールする。
藤井は痛々しく起き上がると恐れずに続けた。自分でも驚くほど冷静に。
「社長は必要経費として多額の金銭を政治家に提供しているが、経理名目を適正に処理しているとは思えない。総会屋に対しても同様だ。経費と称し私欲のために会社の金を湯水のごとく使う。取締役はその行状を知ってか知らずか、ほっかむりを決め込みゴモットモの一点張りだ」
「何が正しくて、何が間違っているのか判別すら出来なくなっているとは末世な観がある」
「社会的な制裁を受け倒産の危機に会う前に膿を出す必要がある」
いつの間にか藤井の右手にはあの勾玉が握り締められ、その先は役員達に向けられていた。一瞬のことだった。勾玉の先端から発射された青白く太い閃光は、枝分かれし弧を描き並み居る役員の一人一人の胸を射抜いた。発射の反動は凄まじく藤井の体は入り口の扉に叩きつけられ床に転がった。弾き飛ばされた勾玉からは以前と同じ白色光が発散され藤井の意識は薄れていった。


晴れ後雷雨

 広々とした窓の遠方には青々と茂った御苑の森やタワーが見える。何時も見慣れた光景ではあった。時々こうしては彼方に目をやり思索に耽ることが多くなって来ている。
不意にドアをノックする者があった。
「社長、定例の試験会が始まります。第3技研室です」
清水秘書の透きとおった爽やかな声が室内に響く。
「直ぐ行く。始めていてくれ」
暫らくの間外を眺めていたが、振り返ると力強い足取りで部屋を出て行く。第3技研室では社長が開発を指示した商品の試験が行われていた。とは言っても大画面が備えられ、双方向通信設備のある部屋で、生産工場から送信されてくる試験状況を検分するための部屋である。以前は旧社長の骨董趣味に使われていた部屋であったが、彼が社長に就任後改装し設置されたのだ。
「この商品もヒットは間違いないようです」
入ってきた社長に開発部長は愛想よく振舞う。
「俺の感性に今まで間違いは有ったか」
部長を一瞥し、次々に気付いたテストを指示していく。少しでも不満のあることが見つかると、とことん追求し、時には誰彼構わず雷を落とす。 「お前の頭脳はもう限界か。こんな幼稚な思考回路なら小学生と同じだ」
「何時まで掛かっている。時間の観念のない奴は生きてはいけない」
手厳しい批判が続く。
「良いだろう。商品化できそうだ。次回は完成品を見せろ」
そう言うとさっさと部屋を後にした。
頑固な歩調で廊下を進む姿は、近寄りがたい雰囲気を漂わせ彼の行く手を遮るものはいない。既に幾つもの新製品を世に送り、どれもが世界中を席巻し一流企業として君臨するまでになり、その全ては彼の発案から開発されたものばかりであった。何時しか誰も彼の言動に対し抵抗することも批判することもなくなっていた。旧友である三浦や森下も次第に遠のき、今では殆んど顔を見せることもなくなっている。企業の継続、前進を旗印に邁進没頭してきた今、腑に落ちない、抜け落ちている何かを感じるようになっていた。
資料室を改修し情報室となった入り口に立ち止まると、
「藤井だ、6八飛 3七桂」
符丁を口にすると、扉を開け中に消えていった。この部屋は世界の主要都市に開設した営業支店をネットワークし、その情報を戦略展開に活用する言わば情報収集室である。並べられたディスプレーは常時オンライン接続され、世界の瞬時状況が把握できる。眺めているうち支店の一つに目が向いた。ディスプレー上部に注意警報が点滅している。
「あれは何の注意警報だ。至急読み出して社長室まで持って来い。」
係員が解読中にも関わらず急がせていた。
 藤井の昼食は数枚のトーストとフルーツが定番であり、或る時からこの形を崩してはいないが、何時頃からだったかハッキリした事は記憶になかった。情報室の係員が解読書を手に慌てた様子で社長室のドアを叩いたのは昼食から戻って間もなくだった。
「緊急事態です。社長が以前開発販売したシステムに異状が発生し、このシステムを利用して生産した製品がことごとく不良品となり、製造会社からクレームや損害賠償の請求が押し寄せているとのことであります」
「既に他の国からも同様の情報が入り始め、パニック状態です」
「損害請求額は予測できないほどです」
社員の目は宙を泳いでいる。次々に情報室から新たな情報がもたらされては沈んだ空気が流れる。聞きつけた重役達も社長室の一隅に陣取り互いにひそひそ話を続けている。このままでは巨額な欠損を残し倒産の憂き目に会うだろうとも聞き取れる。日頃から社長に対応の不味さを指摘され反目していた重役の一人が聞こえよがしに呟いた。
「責任をお取りいただくことですな」
集まった役員の誰一人として、この重役の言葉を諌めるものはなかった。藤井は眦を決し怒鳴り声を上げた。
「この会社を盛り立て、今日を謳歌できるようになったのは誰のお陰だ」「恩知らずはお前達だ。全員この部屋から出て行け」
資料が散乱し誰もいなくなった室内は、何もかもが失われ孤独感だけが漂っていた。藤井は広い窓からいつも見ている御苑の森に虚ろな視線を投じる。何もない何も考えられない時間が過ぎていった。ゆっくりソファーに腰を下ろすとテーブル上の来客用に置かれたタバコを一本取り出す。課長になってから止めていたが、昔の癖が出たのだろうか、先端にシュボッと火をつける。途端に咽び幾度となく咳き込む。深々と座りなおし指に挟まれたタバコの紫煙を見つめるうち、藤井の口から聞き取れないほどのか細い声が漏れた。
「俺は何という下品な人間に成り下がっていたんだ。事業発展のためとはいえ、人を罵倒しその人格を否定し押さえつけてきた」
「俺が最も嫌っていたことを平然としかも当たり前のように」
タバコを消そうと水の入った灰皿に手を伸ばす。気付くといつの間にかその隣にはあの乳白色をした勾玉が現れていた。
藤井は手を伸ばしたままジッと見つめていたが、
「そういうことか」
大きく深呼吸をすると躊躇いもせずそれを手に取り、こめかみに近づけたのだった。


藤井時々晴れ

 細長い葉を茂らせ、そよ風に揺らぐあぜ道をゆっくり、ゆったり散策する夫婦が一組、春の昼下がりをのんびり過ごしていた。空には高く舞い上がった小鳥がさえずり妙に心地よく聞こえてくる。
「最近年なのかしら。性格が穏やかになったようね」
「いきなり怒り出すことがなくなったように思うけど」

「馬鹿なことを言うな。変わりはしないよ」

「でも何となく変わったと感じることがあるわ。私の話もよく聞いてくれるようになったし、ご近所とのトラブルも無くなったわ。前とは違う」 「貴方が万年係長でも、私は何とも思ってはいないからね」
男は苦笑しながらも以前とは違う自分に気付いていた。つまらないことに拘らず、おおらかに物事が見られるように感じられていた。
「少しは進化したかな」
「ところで洗面室にあったあの鏡はどうしたんだ。最近見ないけど」

「何いってんのよ。どうしても神谷さんに上げると言って、持っていってあげたんじゃない」
藤井は空を見上げると思い出したように言った。
「そうか。次は神谷君か。」

爽やかなそよ風が畑地を渡っていく。芽吹いた新緑が心地よさそうに風を受け揺れ動いていた。

この小説はフィクションであり、日本将棋連盟とは全く関係ありません。
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