「 理(ことわり) 」

第1章 明るい日々
第1節 犬と猿

 街中とはいえ緑に覆われた閑静な住宅街の一角で、大捕物が今大詰めを迎えようとしていた。捕獲用網をかざし防具を着けた隊員達は、二重八重に取り囲み追い詰めていく。散らばって捜索を続ける捕獲隊員に向け大声で応援を求め騒がしい。
「おーい、居たぞ。こっちに来てくれ」
「麻酔班にもこっちへ来るよう伝えてくれ」
捕物を面白半分に追う住民も恐々遠巻きに成り行きを見守る。追い詰められ捕獲される側は、歯を剥き出し恐怖に駆られたトーンの高い声を上げて威嚇する。包囲網は次第に絞られ捕獲網は、隅に追い詰めたはぐれ猿に襲いかからんとしたその時、何処から現れたのか白い大型の犬が一頭猛スピードで捕獲網に飛び込んできた。捕獲隊は何が起こったのか戸惑い躊躇した一瞬、囲いの一部が綻び、恐怖に脅え全身の毛を逆立て牙をむいて声を張り上げていたよそ者は、見事な跳躍と身のこなしで屋根に飛び移ると瞬く間に姿を消した。
「一体何処の犬だよ。肝心なときに邪魔するのは」
張り詰めた緊張が一気に解け、訛りのある尻上がりのしゃがれ声に回りはどっと沸いた。
「これに懲りて暫らくは寄り付かないだろう。引き上げるぞ」
年配の隊長と思しき男は、網に掛かってもがく犬を苦々しく横目で睨みながら、誰にも怪我がなくほっとした表情を覗かせた。犬は網から解放されるや、取り囲んだ衆目をかいくぐり、猿が消えていった方角めざし一目散に走り去った。 取り囲んで事の始終を見ていた群衆の一人が、小さくなっていく犬の方を向いて思い出したようにポツリと漏らした。
「あの犬はピーターじゃねーか」
「利口な犬なのにどうしてこんな事をしたんだろう」
「やっぱり犬は犬だね」
呼応して話しに加わりたい者も出る。
「そう言えば新聞にも載っていた犬によく似てるわ」
「この辺じゃ有名な犬で、貰った感謝状は数え切れないってことだ」
「この間も用水路に落ちた子供を助けたとかで、ドッグフード一年分を貰ったらしいぜ」
「誰が飼い主なんだい。」
「知らないのかい。町外れの丘の上にある森の付近さ。自由の塔が近くにあり、小川が流れ楢の林が葉を茂らせこんもりとした静かなところなんだ」
「俺は見に行ったことはないが、老人一人で古びた一軒家に住んでいるらしい」
野次馬が援護射撃のごとく、見知った話を掻い摘んでは打ち出し華を咲かせる。 捕獲隊は井戸端に割り込むこともなく、黙々と機材をまとめ数台の車両に分乗すると騒がせた住宅街を足早に去り、残って雑談に余念のなかった野次馬も夕暮れと共に三々五々姿を消し、何時もの閑静な落ち着きが辺りを包んでいた。
 高く昇った陽は山肌にゆったりと流れる雲の影を映し、その陰影は上空の風に追われ次々所を変え進んでいく。山を背に小高い丘は、大半を青々とした樹木に覆われ、その中に自由の塔の先端が妙に突き出し奇異な感じが漂う。山の所々に開けた空間は、伐採後の苗木の新緑が継ぎの当たった面白いデザインを作り出し、その上空にはトビが数羽上昇気流を捕らえ、悠然と舞いながら背後に控える山々に溶け込んでいる。
 丘の上に続くなだらかな緩いカーブの坂道を、郵便配達夫がバイクを駆って登ってくる。配達夫は坂の上の平坦な敷地に植えられた芝生にバイクを止めると、その奥の竹林に囲まれたうす暗がりに入っていった。
「御免よ、居るかい」
古びて建てつけの悪い引き戸をこじ開けながら声を掛け中に入る。黒光りした太い柱と曲がって粗削りの、これも太い梁が目に飛び込んでくる。昔は豪農の云われでもあったであろう建物は、手入れもままならぬ様子に今ではすっかりうらぶれ、至る所で綻びも目に付く。
「誰かね」
土間の奥から洗いざらしの野良着がヌッと姿を現し、配達夫を見定めると愛好を崩し迎えた。
「仕事とは言えこんな所までご苦労さんです」
「そこらに掛けたらいい。お茶でも入れるから」
老齢に伴い最近では視力も落ち、思うように動けないとこぼしながらも勝手知る台所から茶器を用意し、ごつい手が配達夫の前に茶を差し出す。
「実は爺さんとこのピーターの事なんだが、先日はぐれ猿の捕物中に飛び込んできて、もう少しで捕獲寸前の猿を逃がしたそうな」
「こんなことは別に取り立てて騒ぐことでもないんだが、この話をあの市場議員が嗅ぎまわっているらしいんだ」
「以前、彼奴の顧問弁護士がやって来て、この土地を高く買うから明け渡せと脅迫めいた事を言っていたのを思い出したんだ」
「この森を住宅地に開発しようなんてどうかしてるよ」
「実際本当かどうか分かりゃしない。彼奴のことだから何か良からぬ企みでも仕出かさないとも限らない」
「くれぐれも用心しておいた方がいいよ。弱い者いじめは得意だから」
「今でもピーターを放し飼いできる特例は生きているとは思うけど」
配達夫は茶碗を手に老人の顔を覗き込んだ。
「ピーターが何故そんなことをしたのか、回りの者も不思議がっていたらしいが本当の話だ」
「あれほど賢い犬がどうしたのかね」
グッと茶を飲み干すと老人の返答も待たず、今日はまだまだ仕事が溜まって忙しいと、あたふた薄暗い家を後にした。
老人は暫らくの間、土間の一角に視線を落としていたが、特に変わった様子も見せず立ち上がると奥へ消えていった。

第2節 ピーターの日常

 住宅街の中央を東西に走る広い道路の両脇には、日常の必需品、装飾品、ファーストフードまでも供する店舗が軒を並べ飾りを競い特色を主張している。 歩道の所々に張り出されたテーブルとチェアーは、話を弾ませるカップルや疲れた老夫婦に一時の憩いを与え、日差しを遮る街路樹もあちこちに涼と安らぎを呈し人通りは絶えない。その中を軽快に歩き回る白い大型犬が人混みに見え隠れながら何かを探している。地に鼻を擦りつけ臭いを嗅ぐ訳でもなく、そこ此処にマーキングをするでもなく、ひたすら食べ物屋を探し歩く。立ち止まり首を上げた店先は、慌ただしくコロッケやらトンカツを揚げる店員と混雑した来客が立ち並ぶ惣菜店であった。犬は遠慮会釈もなく込み入る客の足の間に首を割り込ませると、無理矢理店の中に入ろうとする。足に犬が絡みついた女性客は、悲鳴を上げ飛び上がり後ずさりした。
「何この犬。あっちへ行ってよ」
周囲も騒ぎに巻き込まれサーッと犬を遠巻きに輪が出来た。店員は悲鳴に気付き、持っていた揚げ箸で犬を追い払おうとした矢先、奥から出てきた恰幅のいい店主が日の浅い新米店員を制した。
「この犬はいいんだよ」
「暫らく来なかったね。ピーター」
近寄ると自分の子供を愛しむように優しい眼差しで見つめ、頭を撫で体に触れる。
「何が欲しいんだ。メンチか鶏肉かそれとも牛か」
犬の目を見ながら問いかける。
「そうか、今日は牛が欲しいか」
言うが早くショウケースから無造作に1キロほどの生肉を取り出すと袋に入れ犬の前に差し出した。ピーターは口に銜えると、2、3度嬉しそうに尻尾を振り、人混みの間をすり抜けて行った。その行為を唖然として見ていた客は、一体どう言う事なんだと店主に詰め寄る。
「あの犬には恩があるのさ」
「もう2年も前になるが、揚げ物中に店の奥で電話が鳴って話し込んでいた時だ。油に火が入り危うく火事になる寸前のところを、店に飛び込んで来たあいつが俺の袖を引っ張り教えてくれたんだ」
「ついでに火災報知機まで作動させてくれた」
「そればかりじゃないないんだ。この間も忙しく配達に行った何処かで財布を落とし、カミさんに怒られている最中に拾ってくれて届けてもらったこともある」
「俺ばかりじゃない」
「通りの相向かいに宝石店が見えるだろう」
「暫らく前に強盗が押し入り、夫婦を縛り上げ宝石を盗んで逃げようとしたところを取り押さえたんだ」
「真夜中のことでよく見えなかったが、駆けつけたお巡りさんに、脅えた二人組みが取りすがり、あの犬に脅されたとか犬がしゃべったとか支離滅裂なことを訴えたらしい」
「余程ピーターの迫力が怖かったと見える」
「あんた方は知らんだろうが、この界隈じゃピーターは有名さ」
店主は自慢そうに客を見回し、振り返りながら恰も肩で風を切る素振りを見せ仕事に戻っていった。
早足の歩を緩め次に立ち止まったのは、掛け声よく果物や野菜を商うおばさんの前であった。八百屋のおばさんは、ピーターに気付くとしゃがみ込んでこれまた総菜屋の主人よろしく頭を撫でたり、愛おしげに体に触れたりと可愛がる。
「おや、手前の惣菜屋さんに寄って来たのかい」
銜えた袋を覗く。
「ここに寄ったのは何か欲しいからだね。云ってごらん」
ピーターが理解したかは分からないが、すぐさま箱の上に盛り上げられたバナナに鼻をつけ尾を振った。
「へー、バナナが食べたいのかい。」「お前さんピーターがバナナが欲しいんだってさ。紙袋に包んどくれ」
客と話中の主人を顎で使う。体格も態度もおばさんの比ではなく、物腰の低い主人は、包んだ袋の端をピーターに銜えさせると、「煩いカミさんだね。」と、目配せし、ピーターの背中を軽く叩いた。
「この間は有難うよ。お陰で娘は助かった。お前が体当たりで子供を突き飛ばしてくれなかったら今頃は大怪我をしていた」
「お前さんにも怪我がなくて幸いだったよ」
主人は目を潤ませた。
この日、ピーターは数件を梯子し、老人の元に戻ったのは夕日が陰り丘の坂道が薄ぼんやりとした夕間詰め時分であった。器用に引き戸をこじ開けると、スタンド明かりが灯る書斎の入り口に立ち、読み物に耽る老人の顔を覗き込む。 老人は気配に気付きピーターの方を向くと、
「今帰ったところか。何時までも遊びまわっているんじゃないぞ」
優しい低い声で諭すと、読みかけの本をたたんで机の端に置きながらゆっくりと立ち上がった。
「又、店で何かねだってきたのか」
銜えた包みを見て呟く。
「この間も代金を支払いに行ったが、何処の店も受け取ってはもらえず逆にお前さんへの土産を押し付けられたよ」
「お前のことは鼻が高いが、余り人様に迷惑を掛けるな」
腰を折り床に置かれた包みの一つ一つに目を通すと、ピーターの頭を撫で台所へ持っていくよう言いつける。重い腰を上げると後を追い食事の用意に取り掛かった。
老人とピーターの食事が済んだのは、家から漏れる僅かな明かりを除くとすっかり日も落ち、辺りは漆黒の闇が支配する時刻になっていた。老人は再び書斎にこもると取り寄せた資料と挿絵の入った文献を丹念に読み始めている。
土間の入り口隅に干しわらが敷かれ、その寝床で先ほどからピーターは尖った耳をピンと立て外の音を頻りに警戒している。書斎の明かりに写る老人のシルエットに鋭い眼光が走る。張り詰めた緊張がピーターの耳を小刻みに震わせていたが、どの位経ったかピーターの目は何時もの穏やかな平静を取り戻していた。

第3節 ピーターの不思議な力

 この日もピーターにとっては日課のようになっている、なだらかに続く丘の上の森をあちこちウロウロと歩き回る。茂った樹木の隙間を、朝日が覗く木立の間を、時には立ち止まり遠方を凝視し、或いは眼前の洞窟の入り口を興味深く行ったり来たりと繰り返す。或る時は腹ばいになり樹上を見上げ、静かな時を味わうかのように森の声に聞き入る。こうした所作が安らかな一瞬を捉えているわけでもなく、かといって警戒感を如実に表しているようにも見えない。 この森を早朝から散策するものは滅多にいない。いや、ピーターがこの地に暮らすようになってから、大勢の人がたむろし行楽に溢れかえるところなど見たこともなく、何時もひっそりと佇み賑わうことはなかった。森が人の気配を忘れる頃になるとここらでは見かけない人影がたまに通り過ぎるが、その後は暫らく途絶えリスや猪と言った動物が徘徊して回る。この街から田畑を挟んで離れたところに住宅街や商業区域、その裾に工業地帯が広がり、活況を現実のものとして示している。この街の文化施設は拡充し教育関連人材は、多方面から登用し充実を図ってきた、此処ではこの森だけは何故か長い間タブー視されてきた。然し、最近頓に森に入って来る人影が多くなった。目立たない服装に距離計や地形図を携え界標杭を打つ集団、完成未来図を手に背広姿の建設コンサルや施設マネジメントといった風貌の者達が増えている。
ピーターは一頻り森の精気を浴びると満足そうに街へ出て行く。行き先は住宅街の公園や人通りの多い街路であったり、商業区域の人だかりの多い場所を好んで歩いた。人の話に小首を傾げ目を細め相槌を打ち頷いてさえ見えるほど溶け込み、周囲との違和感を抱かせない雰囲気がある。腰を落として話しあっている者も、気付くと犬の頭を撫でている自分にハッとして手を引きながら苦笑いを禁じえないほど、それは極自然な振る舞いに思えた。人以外に余り興味を示さないのも一風変わった感覚で受け入れられている。特に同類には全くといっていいほど関心はなく、吠えられようが威嚇されようがお構いなしに行動する。自分よりも小動物に至っては無視するどころか目にも入ぬような無関心振りである。見方を変えれば人によく馴染んでいるとも思える。
今日は何時になく遠くへ足を延ばし、商業地の外れのベンチにたむろする、代を引き継ぎ隠居の身を寄せ合い世間話をする老人達を目ざとく見つけると近寄り会話に聞き入る。
「全くうちの婆さんは頑固でかなわん。嫁の考えも理解してやらないと行き詰まっちまう。どうして自分の殻に固執しすぎるのか理解できん」
「死んだ俺の婆さんも同じだったよ。確執に生きがいを見つけたんだろうが偏見に気付かなかった」
「誰が何と言おうとも聞かなかった。女の性か、執念みたいに」
「あの執念は死んだ後も生き続けたんなら凄いことになっていると思うよ。」 「いくらなんでも嫁にそんな怖い話はできんだろう。やっと清々したんだから」
「男だって似たようなもんさ。いい年して女に狂った奴が起こした凶悪事件を見れば分かる。男の性では解決しないこともある」
「執念というか、怨念というか」
「人が人であろうとすればするほど葛藤は大きく、人であることを忘れれば忘れるほど執念は増大する」
「今に始まったことじゃない。人間を自覚した太古の昔から付きまとってきた難問でもある」
別の年寄りが間に入る。
「何を詰まらない話ばかりしているんだ。解決できるわけでもないのに」
「それより今度の俳句の会は何処でやるんだ。早く決めてくれないと予定が立たん」
「俺は未だ片足が現役に浸かっている。やることは沢山あるんだ」
話し相手の一方を向き苛立たしそうに急かせる。
「そう慌てることもないだろう。我々の老い先は短いが考えられる時間は長い」
「今は金に飽かせて自分の欲求を満足させることが最優先のように思われているが、決して本質ではあるまい」
「お前さんも一刻も早く金儲けから足を荒い、自分を見つけたほうがいいと思うんだが、未だ未練があるようじゃな」
「俳句の会長は事を急いて苛立つ商店主に歯に衣着せぬ言い方であしらう」
「相変わらず口は達者だな。夫々に事情は色々ある。他人に生き方を教わる気はないね」
サラリーマンならとうに定年を過ぎてはいるが、まだ矍鑠として事業を続ける商店主は顔をしかめた。
「決まったら早めに連絡をくれ」
言い捨てて忙しく立ち去っていった。
きつい言葉を並べ立てた件の会長も所用を思い出し、そそくさと取り囲む老人達を後にした。
「全くあの二人は寄ると触るといがみ合う。まるで幼児の言い争いね。」 「犬、猿と一緒よ」
老人仲間の女性が囁く。臥せって目を閉じ話に聞き入るピーターを見ながら、
「おまえも変わった犬ね。じっと聴いているようだけどこんな話の何処が面白いのかしら」「それとも私達を観察でもしているのかしら」「人間なんて滑稽に見えるでしょうね」
吸い寄せられ暗示に掛かったように頭を撫でる。
首を上げたピーターの顔を覗いて老女は驚きの声を上げた。
「あら、あなたの目はとっても清々しいわね。スカイブルーって言うのかしら。初めて見たわ。瞳の中により青い瞳が見えるようだわ」
「この白い毛も今まで触れたことがない手触りね」
独り言が周りに波及してピーターに視線が集まる。ベンチに後ろ向きに掛けていた薄いグレーのショールを羽織った小柄な老女が向きを変え、ピーターをしげしげと見つめながらお手を催促した。か細い手首には包帯が痛々しく巻かれている。何処か寂しく悲しげな眼差しを注ぐ老女を見返し、起き上がると差し出された老女の手首を優しく嘗めた。
「お前の目はとても澄んでいる。きっといい飼い主がいるんだろうね」
そう言いながら頭を軽く撫でる。途端に甲高い叫び声に似た嬉しさがこぼれた。
「あら、今まで痛かった手首がこんなに動かせる」
周りの仲間に今までの苦痛が何だったのかを訴えている。
「長い間この痛みから解放されるなんて考えられなかったのに、どういうことかしら」
片方の手で頻りに包帯をした手首をさすっている。周りの仲間は一人で狂喜する老女を支えるように労わった。
「貴方は人の痛みが良く分かる人だ。きっと神様が手を貸してくださったんじゃろう」
「良かったわね。でも無理しないことよ。医者も原因が分からないんだから」
「信心深い人には褒美があるもんだ」
口をつついて出る労わりは、その人柄を良く表しているようだった。
老女が笑みをたたえ振り返った時には、既に白い生き物は視界から消えていた。老女は包帯の巻かれた手首を擦りながら感慨深そうにピーターの居たベンチの隅を見つめ続けた。
女性が白い犬があの森に住むピーターと知ったのはしばらく後のことだった。

第4節 森の中

 何時になくざわめいている。シンと静まり返っているはずの森が、威風堂々と揺らぐことのない落ち着きを備え恐れさえ誇示するこの森が、ひしひしと伝わる異様を感じている。微かに確実に何かが何時もとは違う。遠くの木陰で近くの葉陰で俊敏に動く。いきなり黒い影がシュルシュルと滑り落ち、地に着くや落ち葉を蹴散らし枯葉を跳ね上げ背後の山を目指す。地中に巣食う野鼠は、地表へ沸きだし集団となり帯を引いてリスの後に続く。バサバサッと1羽の鳥が飛び立ち、つられて数百もの黒い翼が白々と明けるホワイトブルーの空に飛び出していく。小動物はおろかこの森に生息する中では大型の猪までもが、一斉に安住の地を捨て逃走する。ザワザワと地を響かせ幹を軋ませ梢を震わせ葉を鳴らし逃走は続く。やがて音が止み生き物達の気配が消えると、森の中に冷気が漂い、幾本ものダークグレーのカゲロウが立ち始めた。それは地中から這い出しフワフワ、ユラユラと揺れながら幹や枝葉を透過し昇っていく。所構わず吸い出されるように浮き上がり競い合い立ち昇る。次々に地中から沸き上り長い尾を引き速度を速め捩れあい、森の上空に漂い集まる。既に森全体が黒ずみ木々の輪郭は見えない。黒雲が沸き上るごとく覆い尽くす。いつしか押し込められた閉空間から抜け出そうとばかりに大きく波打ちもがく黒い塊は、より一層巨大に成長していった。突然ホワイトブルーの上空でチカッと赤い光が輝いた瞬間、太陽がフレアーを勢いよく放射するように、もがく塊の最上部から1本の黒い柱が赤い光目指し高速で伸び上がっていく。赤い光と森の黒体とが柱で一直線に結ばれた途端、風船が急速にしぼむように森を包む黒雲は小さくなり始め、次第に消滅していった。消滅と同時に黒い柱は上空の赤い一点に吸い込まれ跡形もなく消え失せた。やがて冷気が去り静かな時が戻ると、森は朝焼けの中に変わらぬ平穏なたたずまいを見せ、何事もなかったかのようにひっそりとしていた。
 商業区域と工業地帯を挟む広い道路沿いに、国立研究所は最新機器を備え構えている。目立たない表札と地味な色調の建物は、通り過ぎる人には意味のない構造物としか映らないだろう。しかし、高いレンガ塀に囲まれた敷地はちょっとした大学のキャンパスを具現し、幾何学的、機能的に配された建物は、近未来を象徴し異次元にさ迷い込んだ感じを抱かせる。所内の奥にあるどの建物も在り来たりの箱型はなく、モスクに似たものやピラミッド、ひし形の一角を地中に突き刺したものといった奇妙な形をしている。 早朝からパラボラアンテナ型をした建物に研究員がせわしなく出入りを繰り返している。その研究室の入り口には『エネルギー波物性研』の文字が見える。 知らせを受け慌ただしく入室した教授に徹夜で観測を続けていた研究員は、 「久々に現れました。前回に比べ規模も大きくなっているようです。」 「今回は珍しく早朝であったため、はっきりした映像が撮れました。」 研究員はスクリーンに映し出された静止画を拡大させていく。教授は所狭しと置かれた機器の間を縫って、スクリーンの前のテーブルに腰を下ろし食い入るように見つめた。
「森の中では相変わらず電磁波や重力波は観測されませんでした。地中に設置した振動波測定装置にも動物らしき動きを示すもの以外は観測されません」
研究員は早朝に起こった状況を説明する。
「柱が消えた上空に何か変化はなかったのか」
教授の言葉に研究員は、
「ちょうど赤く光る場所で磁場に乱れが生じました」
更にスクリーン上を拡大させながら指摘に答える。
「一体何のエネルギーなのかこれだけでは分からん。然し、いい材料が手に入った訳だ」
「ひょっとすると解明の糸口が掴めるかもしれんな」
教授は埋め尽くし立ち並ぶ助手や研究員を見回した。すぐさま映像の解析が始められた研究室内に、はっきり場違いと分かる背広姿が入室するやスクリーンを覗き驚嘆の叫びを上げた
。 「俺の言ったとおりだろう。やっぱりあの森は凄いところだ。何かがいる、何かがある。」「今までにこんな現象を見たことがあるか。教授の想定したCG以上だ」
「何としてもこのメカニズムを解明してくれ。だてに研究費を援助している訳じゃないんだぞ」
太い眉と他を威圧する眼光が室内をシンとさせた。不意の来訪者こそ、この地域を地盤とし世襲以来バッジを胸に政治活動を続ける市場議員であった。
教授はその声に振り返ると、眉をしかめた。が、平静を装い、
「朝早くからご苦労様です。私も初めてこの映像を目の当たりにしたが、不可解、不思議な現象としか言いようがない。」「メカニズムの解明を急いでいるが、未だ時間が掛かりそうだ」
手を差し出し、スクリーンの前のテーブルに着座を勧めた。
「そんな悠長な話を聞きに来たわけじゃない。一刻も早く解明し利用価値を確認することだ」
「俺はあの森の中で、この目で実際に見たんだ。」「桃源郷を!」
「花が咲き乱れ小鳥がさえずり動物達が飛び跳ねるのを。風が笑い小川が歌い光が話しかけてくる摩訶不思議な世界を」
「皆に是非見せてやりたいんだよ」
「今スクリーンに見えている映像は不気味だがこれが全てじゃない。」 「否、この現象が悪いのか、未だ決まったわけじゃない。早急に原因を解いてくれ」
興奮しまくし立てたが、我に返ると満足した様子で教授の脇へ着座し、これまでの研究成果を催促した。
議員の話を呆気に取られ聴いていた研究員達も、我に返ると解析作業に立ち戻った。ひそひそ話しが続いている。聞こえよがしの、脅したりスカしたりの小声が研究員の耳にも届く。暫らくすると「頼んだぞ」と周囲をも威嚇せんばかりの台詞を残し議員は退席して行った。
淹れ立てのコーヒーを持って助手の一人が近寄ると、
「先生、彼の話なんか真剣にならなくても良いんじゃありませんか。研究費の援助といったって、実際には国の費用を自分の名前に置き換えて出しているに過ぎませんから」
「強欲の権化の命令は後々何かと問題を起こしかねません」
「皆に桃源郷を見せたいといっていますが、金儲けの手段でしかないように思います」
一つを教授に差し出す。
口元を綻ばせ助手を見上げると、
「私はサングラスを掛けてもいなければ、眼鏡が曇ってもいないよ」
「彼の素性くらいは知っている。この研究機関を強引に国費で立てさせたことや、あの国有地の森の大半をバッジの権力で手に入れたことも」
「最近では森を開発しレジャーランド建設構想に血眼らしい」
にこやかに話しかけながら今まで掛けていた議員の席に助手を座らせた。
「ところで君はこの現象をどう捉えているのか聞かせてもらいたい」
邪魔者が消え清々した口調が伝わる。
私の考えが先生に受け入れられるかは多分に疑問ですが、と前置きしながらも助手は持論を展開させた。
「先ず、『桃源郷』の事ですがこの現象が関わっているとすれば、現在の物理学上解明するのは至難の業と思われます。」
「どうしてこんな不気味な状況から『桃源郷』の発想が出てきたのか不思議でもあります。しかし、彼が実際に遭遇したのなら、その事象を解明する事も出来ますが、それが彼の利益に直結するのかと考えると気が進みません」
「そう言った事からこの現象については、現在の地球上で如何に技術が進歩したとは言え、このエネルギーを計測する事は出来ないのではと思います」
「ニュートン力学や熱力学とも違う超理論力が働いているのではないでしょうか。ただ,エネルギーとしての総量は、熱力学で言う閉ループが確立していると考えています」
「でも、このエネルギーがどのような変位を示すのか皆目見当が付きません」
教授は興味深く聞き入りながら更に質問を続けた。
「すると君は、宇宙が青方偏移に転ずる未知のエネルギーの可能性が有ると言いたい訳か。新しい物質の存在形態がこの現象にあると考えているのか」
「いえ、そこまでの大きなエネルギーとは思われません。実態が仮想しにくくどう話したらよいのか分かりませんが、或る状況下ではとんでもない事態を引き起こす事があるのではと言う予感がします」
「物理学者の君らしくもない話だ。だが、面白いところもある」
「最近の研究では遮蔽された真空中に、突然粒子が現れたり消滅する事が分かった。これが何を意味するのかは今後を待つしかないが、現在分かっている核力や分子間力とは違うエネルギー形態ではある」
「君の唱えるエネルギーも何れは晶質化し、ビッグバン時の質量かもしれない」
「それと気になるのは計測できないエネルギー形態が、もしも生体に何らかの害を及ぼす可能性があるとするならば、我々の研究範囲外のことでもありとても困難な事態になるだろう」
「実は私も同感するところがある。君よりも突飛な発想かもしれないが笑わないで聴いてくれ」「あのエネルギーは、時空に物質化できずエネルギー体として浮遊し続けているのではないかと。しかも或る環境下では意識を持ち、或る潜在下ではことさら沈黙を守り通す得体の知れない生き物ではないのかと」
ニヤリと笑いながら教授は更に飛躍した推論を展開した。
「これも私の仮説だが、上空に現れた風船お化けや黒柱を飲み込んだホール、即ちブラックスポットは、天体間を結びつけ物質やエネルギーを瞬時に移動させる事が出来る、ストリングスの出入り口ではないのかと」
「このストリングスがどういった条件下で発生するのかまでは推測できないんだがね」
悪戯っぽく目元を緩ませ、助手の対応に関心を示した。
「私の新説は、教授の足元にも及びません」
笑いながら立ち上がると、
「後でしっかりご指導いただきます」
一礼すると助手は作業途中の分析器へ戻っていった。教授が話を締めくくる時に引用する手法は、誰もが想定し得ない事柄に終わり、驚くべき結論を持ち出し事態を帰結させるという事を助手はよく知っていた。
教授は目を閉じ尚も自説の展開を飛躍させているように見えた。

第2章 引き戻された過去
第1節 猿の行動

 森の中でじっと聞き耳を立て、身動き一つせず待機している。明かりなど何一つない漆黒の闇に、重装備の黒い機動服と赤外暗視装置を内蔵した、アンテナの付いた防護ヘルメットに身を包み、レーザー銃を構えた特殊部隊が待っている。切り株に偽装し、或る者は枯れ草に身を隠し散らばり闇に溶け込む。鍛え上げられた隊員は、無表情の中で忠実に指令をこなす精鋭。じっと待つうち暗闇の中を渡って来るものがあった。遠くの樹の枝が軋み葉音がザワザワと騒ぐ。時々音が止み周りを注意深く警戒する気配が漂う。遠くから届く音質は、森に根付き樹齢を重ねた樹木の枝の軋み音に変わっていく。森の中に注意深く入り込み近づいてくる。大木の根元に潜む隊員の暗視装置は、遠くの闇に2つのチラチラと赤黒く光る並んだ目を捕らえた。
「3次元座標軸へポイント設定」
仲間の隊員へ知らせる。全隊員のヘルメット内面に動く標的の位置がマークされた。生き物の動きに合わせザワザワと鳴る葉音が近づく。樹上の生き物は、静止するとその目から暗赤色光線を地表に放ち何かを探っている。平行して動く2本の光線は地表面を通り抜け地中にまで達していた。暫らく探索が続いたが突然シュッと光線は消え沈黙は闇に溶け込んだ。
「感づかれたか」
ヘルメットの一人が呟く。
「次に目が光った時を狙え」
指令が飛ぶ。
「私の所からなら邪魔になる枝はない。このままでも撃ち落せます」
隊員の一人が自信を見せる。
「光源が有った方が鮮明に確認できる。それに全員で狙える。指示に従え」
隊長の指令が再度伝わる。然し、眼が光線を照射する気配はなく、ヘルメット内の暗視装置に捕らえられた標的は静止し動きを止めたままだった。
「どうやら我々に気付いたようだ。俺の合図で撃て。3つ数える」
隊長が数を数えようとしたその時、日中にそれも正午にしか鳴らないはずの自由の塔の鐘が鳴り響き渡った。漆黒の闇をけたたましく鳴り続ける鐘の音は、森に住む鳥達を飛び立たせ動物達を跳ね起させた。それにも増して予期せぬ緊張が隊員達の意識を逸らし、目標物から眼を離れさせた。同時にザザーと葉音を残し赤い眼をした生き物は視界から消えていた。
「奴は見えるか」
隊長の問いに答えられる隊員はいなかった。
「自由の塔を調べて来い」
数名に指令を飛ばす。
「残りの者は奴の逃げた方角を追跡しろ。ただ、深追いはするな。何時も体が見えているとは限らん。恐らく我々よりも文明は高度だ」
指令を告げると隊長は一人で森を下っていった。
再び隊長と隊員達が向き合ったのは、森の外れに住む老人の家の前であった。
「隊長、何故この場所に」
隊員達は隊長の不可解さに驚いた。だが、隊長は質問を遮り、
「奴はここに来たのか、それとも通り過ぎたのか」
結論を急ぐ。
「それが、移動速度が速く確認できませんでした。逃げた方向はこっちだったんですが」
「奴をロックオンした筈だ。衛星追跡システムは作動しなかったのか」
「それが途中から全く感知できなくなりました。地中にでも逃げ込んだように」
「自由の塔で何か分かったことは有ったか」
「特に変わった事は見当たりません」
「こっちの方へ走り去った白っぽい動物を見ましたが、余り遠くだったもので明瞭な確認は出来ませんでした」
「どっちにしろ今日は失敗だ。引き上げよう。この森はどうも薄気味が悪い」
隊長は首をすくめお道化て見せた。
 翌日には、この情報は教授の下に届いていた。森に関することなら市場議員の命令により、どんな些細な情報であっても教授にもたらされた。一刻も早く不思議な現象を解明する事が、国益になると叱咤されてはいるが、教授の目には率直に受け入れ難い欺瞞が隠れているように思えた。
教授はあの助手を研究個室に呼ぶと、昨日起こった状況を説明し始めた。
「これは極秘だ。他言無用にしてくれ」
ディスプレーを起動させる。
「先生、これは猿のようですが、地球外生物若しくはロボットなんでしょうか」
「我々が知りたい何かを森の中に探しているようにも見えます」
「探索しなければならないどんな理由があるんでしょうか」
助手は初めて見る映像から、この猿が自分達と同じ目的を持っていると直感した。
「今までの特殊機関の調査では、この猿による住民への被害は報告されてはいない。森の付近に潜んでいると思われるが場所の特定も出来ていない」
「住み着いたのは恐らくここ1,2年の事だろう」
「あの現象が顕著になりだした頃と思える」
教授は極秘資料から目を移し、その資料を助手に手渡した。
「特殊部隊を動員してまで何故撃ち殺そうとしたのか、私には理解出来ないんだよ」
「仮に未知の生物だから捕らえて調べたい位の安易な発想だったらごめん被りたいね」
苦笑する。
「先生、この資料の写真に面白いものが写っています。森の中を撮影したものなんでしょうが、ぼんやりとしたこの白っぽい生き物はあの犬ではないでしょうか」
「PCに取り込んで画像処理して見ます」
助手は手早くスキャンすると、徐々に鮮明な画像を浮かび上がらせていく。
「矢張りそうです。最近よくこの研究所に来るあの犬です。なかなか賢く不思議な犬のようです」
教授も画像を覗く。
「先日、うちの研究員が妙な事を言ってました」
「何でもあの犬と一緒にいると心が癒されるというんです。いらいらしている時でも暖かい心に満たされるとか」
「この前、その研究員が産学官共同研究をしている事業所へ出向こうと車に乗り込んだら、車の前にあの犬が座り込んで動こうともしない。クラクションを鳴らそうが、窓から追い払う素振りを見せても一向に動かない。止む無く降りて追い払うが、車に乗り込むとその前に座り込む。同じことを繰り返した後、やっと研究所を出る事が出来たのはそれから20分も過ぎてからだったそうです」
「不思議な話はこれからです」
「彼が事業所に着いたときには大変な事が起こっていて、もしその前に着いていたら彼もその巻き添えになっていたというんです」
「例の大爆発火災を起した電気化学工場ですよ」
「そんな事があったのか」
教授は目を見張った。
「彼が言うには、この犬には不思議な感情と予知能力に似た特殊なパワーが有ると頻りに感心していました」
「この資料に写っているという事は、何か関係でも有るんでしょうか」
「何にしても良く分からんことばかりだ。今日はとことん調べてみるか」
教授の個室は夜遅くまで明かりが灯っていた。

第2節 言い伝えと黒竜の恐怖

 何時ものように森や街中を忙しなく歩き回っては人間社会に拘る。公園や研究所だったり、更には事業所、工場、商店街等至る所でピーターを見かける。彼の行く先々ではいくばくかの癒しが、優しさがこぼれていた。
然し、最近ここに住む人々の間では、森で起こった奇妙な現象が話題になっていた。この森から黒竜が天に昇ると何処かで災いが起こるとか、それを見た者は発狂し、もがき苦しみ死んでいくという言い伝えがあると、地方紙も面白半分に書き立て、古老の言い伝え話や何処から引用したのか尤もらしい文献資料を掲載しては、住民の好奇心を煽っていた。事実、今のところこれらの噂話に誰一人実害があったわけでもない上、他愛ないお天気話以上に興味を引くこの話は、自説を披露し展開させ読者を盛り上げさせるには格好の材料であった。気味の悪いイラストも漫画の世界と受け取られ誰一人として真面目に取り合う風は無かった。
 木枯らしが吹き降ろし、森の木々は揺すられ木の葉を舞い散らす寒い日が始まっていた。日は陰り、風は雪雲を呼び梢を震わせ冷気を這わせる。全くといって良いほどそれは突然起こった。危険を予知すら出来なかった。飛び立つと同時に扇が舞い落ちるように、羽ばたく事も無く地表に落下していく。樹の根を掻き分け逃走する間もなく地に伏す。森の至る所から前触れも無く凄まじい勢いで次々と湧き上がった。触れるものの気を撹乱し、錯乱させ暗黒の淵へ誘いながら空に渦を巻き機を伺う。既に森は飲み込まれ邪悪なエネルギーに満ち溢れ、唸り声と共にはけ口を求めうごめく。街の誰もがこの異変に気付き恐怖を覚えた。顔を強張らせ凝視する者,徒党を組み警戒する者、金切り声を上げ叫びまわり卒倒する者。中には訳も無く近寄ろうと車を走らせ右往左往する者達で混乱は拡大していった。森の彼方上空に赤い光が輝く。それを待っていたかのように黒い雲が赤い光目指し一直線に昇っていく。瞬く間に一本の黒い柱で森と光が結ばれ、森を覆っていた黒い雲はみるみる収縮していく。その瞬間、背後の山腹から赤い光目掛け、淡い光跡を残してオレンジ球が撃ち込まれた。炸裂する轟音と閃光は空間を大きく歪ませ赤い光源は消え去り、同時に柱の先端から行き先を失った黒い雲は、その周囲へ四方、八方と噴き出し上空に漂い始めた。森を覆っていた黒体は上空に吸い上げられ沸きあがり、次第に渦を巻いていった。渦は膨れ上がり巨大化し街全体を覆い尽くして行く。明かりは閉ざされ人々は薄暗闇に恐れ、狂気狼狽し理性を失っていった。黒雲が垂れ込め渦の輪郭がはっきりしてくると、彼方此方から悲鳴が上がった。長円の渦はさながら黒く太い竜が数百匹は集まっていようかと思える様相でゆっくり回っている。竜のウロコには悲しみや苦しみに打ちひしがれ苦痛に満ちた、或いは激しい怒りの形相が無数に浮かび上がり、低周波を思わせるうめき声を上げ見上げる人々を睨んでいる。地表は狂乱し逃げ惑う人、恐怖に足が竦み助けを求める人達で大混乱に陥った。如何に冷静で屈強な者とはいえこの異様には驚愕し慌てふためく。
森の異変に気付き、この様子を遠くから見据える青い眼があった。駆け出すと凄い勢いで背後の山を目指す。音も立てず白い稲妻は山を駆け上がり、オレンジ球が発射された中腹に達すると、
「何故こんな事をする。分かっているのか」
「この星をどうするつもりだ」
暫らくは何の応答も無く、木枯らしに騒ぐ枯れ枝の音がカサカサ鳴るだけであった。が、答える相手を察知し話しかけてくる者がいた。
「この前は危ないところを2度も助けてもらった。有難うよ」
「俺とした事が、油断があった。今後は精々気を付ける事にする」
中腹に迫り出した平らな岩の上から見下ろしている。
「お前が地球に住むタダの犬とは思っちゃいない。文明は多分俺の星と同じ程度だろうよ」
「妙に人間に馴染んでいるようだが、何の魂胆があるんだ」
岩の上から見下ろす戦闘服を着けた猿は、ピーターを訝しげに見つめた。
「ここで何をしている。何故ストリングスを破壊した」
ピーターは猿を睨んで言った。
「それはお前もよく知っている事だ」
「あの不気味なエネルギーの恐ろしさを」
「知的生命体のいる星は尽く被害に遭っている」
「あいつ等はストリングスを通って俺の星にもやってきては、危害を撒き散らしていく。大勢の同胞があいつ等の性で死んでいった」
「次元砲を撃つタイミングが少し遅れたのは残念だったが、ストリングスは決して破壊消滅させる事は出来ない。直ぐに又、修復する」
「もう少し経ったら分断されたあいつ等の残りが戻ってくる」
「お前もそうだろうが、俺もこの現象を調査に来た特殊工作員だ」
「しかし、俺は調査だけで終わらすつもりは無い。あいつ等が二度と俺の星に現れない手段を選ぶ」
「その前に地球人もたっぷり苦しむがいい。自分たちが蒔いた種だ」

「今生きている地球人が悪いわけではない。否、むしろ彼らも被害者だ」
「何かいい策は無いのか」

「あるはずも無い。あったところで今更どうでもいいことだ。俺はこの星を宇宙のごみ屑にしてやる。二度とあいつ等の自由にはさせない」
「お前には借りがある。一刻も早くこの忌まわしい星から立ち去れ。猿は岩の上から姿を消した」
 街は恐怖の嵐が吹き荒れていた。長く尾を引いた黒竜は、次々と地上に突進しては人々を襲う。建物に隠れ身を隠そうが、厳重な扉の中に逃げ込もうが無意味であった。黒いエネルギー体は全てを潜り抜け透過し飛来してくる。体をすり抜けられた人々は苦しみもがき、この世の者とは思えぬ形相に変わり果て倒れていく。若者であれ老人であれ見境も無く襲い,挙句の果てには幼い子供達もその渦中に巻き込まれた。余りにも突然の事に防ぐ手立てすらなく、されるがままに時が過ぎていく。無人と化した工場は制御系に歯止めが掛からず炎上し周囲へ波及する。列車は運転手を失い暴走し横転する大惨事を起こす。車は所構わず衝突を繰り返し、火災と黒煙に包まれ街の景観は一変していった。
ピーターは惨状に耐えきれず、山を駆け下り渦の真下に立つと、
「止めろ、どうして非道なことをするんだ。何がそうさせるんだ」
ピーターは叫んだ。だが、凄惨な動きはエスカレートするばかりであった。 再び、然し冷静に声を落としピーターは呼びかけた。
「お前さん達と同じように俺もこの森の住人だ」
その言葉に地上を、空を支配する黒い竜は、動きを止め全ての意識がピーターに注がれた。
暫らくすると渦の中央から低く絞り出された声がピーターの耳元に届いた。
「貴様があの犬か。お前の詰まらぬ言動で多くの仲間が宇宙に昇華していった」
「お前は『桃源郷』とか言う子供だましの手品を操り我々の仲間を翻弄している」
「地上の人間と同じ目に合わせてやる。覚悟しろ」
ピーターは尚も穏やかに聞いた。
「何故そんなことをするんだ」

「何故?」「我々が生きていた時、一体どんな悪行をしたというんだ」
「お前などに何が分かる。我々の苦痛が、怒りが」
「我々が過去に被った憤りを誰が救ってくれるというんだ」
「戦争に狩り出され訳も無く撃ち殺された者の気持ちが、強盗に押し入られ理由も無く惨殺された者の悔しさがお前に分かるというのか」
「詐欺に会い自殺に追い込まれた者の怒りが、愛する子供を誘拐され殺された親の悲しみが理解できるのか」
「我々の仲間は死んでも死に切れない悲しみや怒りが染み付いている」
「これからは死人に口なしなどと呼ばせはしない」
「生き物全てに我々の苦痛を味わわせてやる」

「確かに気の毒なことだ。しかし、集団化し暴徒化することが正しいとは言えない」

「何を以って正しいという。正義など有りはしない」
「我々に手を差し伸べてくれた、助けてくれた神が、仏がいたか」
「何も居やしない。我々の意思と力で決定するだけだ」
渦から出される声に制止させられていた竜の一匹が、突然唸り声と共にピーターを襲った。
「貴様は俺達を滅ぼす元凶だ」
竜は何度もピーターを跳ね上げては地上に叩きつけた。口や鼻から鮮血を噴き出しピーターの白い体は赤く染まり、息絶え絶えに路上に転がった。
「貴方達の気持ちは分からないわけじゃない。悲しみや怒りの虜になるな。早く気付け」
途切れ途切れのかすかな声でピーターは訴えた。
「罪を犯し貴方達を苦しめた者は、必ず制裁を受けるし受けたはずだ。それが死後であっても」
「心を静め子供の頃を思い出せ。早く宇宙に戻り自然に帰れ」
ピーターの青い眼から少しずつ光が薄れていく。
渦はピーターに矛先を向け、黒い竜巻となって触手を伸ばしてきた。
「他の奴らと違い生命力は強いようだがこれ以上手加減はしない」
垂れ下がり細く伸びた渦の先端は、鮮血に染まるピーターの体に突き刺さった。しかし通り抜けることは無かった。ピーターの体を突き刺した竜の頭が見たものは、霙が舞う険しい岩肌が剥き出しになって荒涼とした不毛の山々であった。その岩肌には鉄の足かせを付けられた罪人達が、ノミとハンマーを手に岩山を削る音が響いている。罪人達は仏像や阿弥陀如来像を休むことなく、黙々と無心に削っている。既にその者達の眼は抉り取られ頬には太い鉄のくさびが打ち込まれていた。
槌の音だけが空しく岩山を木霊している。
長い労苦を経て彫像が完成した瞬間、彼らは色とりどりの輝く光に包まれ天空へ昇っていった。荒涼とした岩肌には新緑が芽吹き始め、瞬く間に花が咲き乱れ明るい光が降り注いだ。光はそこ此処に昆虫や動物、乳飲み子を生まれさせ、柔らかな優しい風を送っている。偏見も確執も何も無い自然を生み出していた。 微動だにせず見つめていた竜の頭は、次第に茜色を帯びていく。竜巻や空を覆い尽くす黒い竜までも茜色に変貌していった。ピーターが転がるところを起点に波紋は広がっていく。壊れた建物や破壊された車両も、嫌、苦痛に喘いで倒れた人々をも含め街の全てが茜色に染まり、焼きつき、静止した。時の一瞬を薄いガラスの鏡に閉じ込めた、そのガラスに無数の亀裂が音も無く走り、茜色の破片は更に粉々に砕け散り、オレンジ色の微粒子となって天空へ駆け上がっていった。
街は、街の人々は呆然と空を見上げていた。記憶の残骸が脳裏をかすめ、今起こったことが事実なのか、それとも別次元にさまよい続けているのか分からなかった。見渡しても血まみれになって路上に転がる白い犬以外は、何時も通りの街並みしか眼に映ってはいなかった。
ピーターは薄く見開いた眼で茜色の消えた空や森を見ていた。
「悲しみや怒りの心こそが、唯一彼らを理性の外海にさ迷わせていた。決して望んでいたわけではなかった」
「彼らにも、否、彼らこそ優しさに溢れ慈悲深く清い心を持った者は無かったかも知れない」
「彼らの住む、これからの時空が永遠とは限らない。何れ収縮し高温、高密度、高重力下で爆発し、再度地球が誕生しても同じ過ちを繰り返す生命体でないことを祈りたい」
最早、身動きすら出来ず喘ぐ吐息も微かなものとなり青い眼から光が消えていった。
時が鼓動した瞬間、天空から一直線に降りてきたオレンジ色の光が、ピーターの体を包み込みスーと浮き上がらせ、見る見るぐんぐん上昇させて行った。人々は感慨深い表情で遠ざかる白い犬を追い続けた。その先の上空にはホールが大きく口を開けピーターの体を飲み込むと静かに閉じていった。

第3節 ピーターの責任

 平穏な日々が続いた或る小春日和。丘の上の老人が庭の手入れに勤しんでいる。街を見下ろす楠木の大木の樹上に猿が一匹、老人を眺めながら呟いた。
「全く変わった奴だった。何も地球に来てまで自分を犠牲にすることは無かったのに」
「それにしてもあいつは犬らしくなかった。吠え方が変だった。オンオンとかバウバウしか言わなかった。少しは犬の勉強が必要だったな」
「俺もあいつのお陰で地球を破壊しなくて済んだのは幸いだったかもしれん」「そろそろ自分の星に帰還でもするか」
樹から滑り降り、地に足を下ろして猿はギョッとした。
何と眼の前にあのピーターが座っていたのだ。
「何だ、お前は死んだはずではなかったのか」
猿は目を丸くした。
「そんなに驚くこともあるまい。彼らが導いた先は俺の星の入り口さ」
「体を蘇生させるぐらい容易いことだ」

「何故舞い戻った」

「私だって戻りたくは無かった」
「しかし、彼らが言うんだ。私にも責任があると」

「何の責任があるというのだ」

「彼らが言うには本来あるがままが自然であり、異を唱え理性を声高に叫ぶことこそ自然に逆らっていると」
「しかも一過性は許されないとも」
「従って将来起こるであろう人類の愚考に対し最後まで責任を取れと」
「地上に悪の種は尽きない。この森に又、我々と同じような意識が充満し人々を苦しめる事となる」
「私の責任は重大であり、最大限の努力を払うべきだと」
「彼らは私を否応無く連れ戻し生還させたんだ」
「貴方に聞きたい。私は一体どうすればいいんだ」

猿は哀れみとも微笑とも取れる眼差しでピーターを凝視していたが、
「これも理か」
空を見上げ呟いた。
猿はそれ以上を言わず眼下に下りてきた宇宙船に乗り込むと、笑顔で敬礼し大空に姿を消して行ったのだった。

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