「辿る先に」

第1章 旅へ
第1節 雨上がりの朝

 降り続く夜来の雨。木の葉が目詰まりでもしているのか、樋から溢れ落ちる軒先の音に眠れない夜が更けていく。少しの不安と大いなる探究心が童心を呼び起こして。長い思考が繰り返されて、いつしか悠久の山河に出会う。穏やかに安らかに。目覚ましは鳴らなかった。否、鳴る前に揺らめいていた意識は、外に白々と明けていく光を微かに受け止めていた。半身を起こす。鈍重な感覚がゆったり流れながら放心に揺れる安住の時は、不意に始まったラジオ放送で覚醒して行った。ポップスの軽めのリズムは今日の気分を歌っているように思える。同じくして鳴り始めた目覚ましも、軽やかな連呼を甲高く繰り返している。天井の四方に吊りさげられた球状の明かりにもスイッチが入ると、徐々に照度を増して眩しい光が瞼の内側に広がっていく。合わせたようにカーテンが開き始め、十畳ほどの寝室の一面に張り込まれた分厚い透明なガラス窓から光が射し込んでいた。眼を向けた窓の光は、開け放たれてみるとさほど強烈な明るさにも思えない。朝靄に雲が垂れ込めてはいるものの、何時の間にか雨は止み所々に薄日の気配が見えている。待ちに待ったこの日が晴れていなければならない理由など有りはしない。この地を巡り、会いに行くわけでも見つけに旅する訳でもない以上、今の天候がどうであれ構うことはなかった。ただ、せめて晴れていればもやもやした気分も少しはすっきりするだろうくらいである。休暇を取るための代償は些細で詰まらない言い争いと苦い後味を残し今日に至ってもいた。ベッドから足を下ろし枕元の壁に突き出た半球状のコントロールパネルを開く。アラームやら開閉装置、全てのセットを解除すると無造作に蓋を閉める。小気味良い金属の擦れる音と空気の圧縮音が響いた。と、同時にベッドは動き始め壁の中に吸い込まれていく。やおら立ち上がると大きく伸びをしながら掛け時計を見上げていた。
「見えるんだろうか」「感じられると良いんだが」
眼は既に子供時分の遠足に出かけている気分。ポップスは終わりの小節にかかると跳ね上げるように結んでいる。曲はニュースに変わり、さも重々しそうに伝える熟年の声が居る者の耳を欹てさせていた。
「今回のトリップは制限を付けないという旅行社の計らいが参加者に受けた模様です」「今日出発する幸運な乗船者のお名前をご紹介しましょう」
熟年のアナウンス氏は長年にわたり染み付いた、灰汁の強いイントネーションを押し付けながら参加者氏名を高らかに読み上げていく。
「相馬孝雄様。会社員。四八歳。独身。趣味は将棋と文化遺跡探訪」
寝室の窓際に立ち霧のかかった山間を眺めていたが、突然の呼び出しは余りにも意表を突くものだった。名前を公表するなんて聞いてもいないし、プライベート情報も間違っている。独身には違いないが歳も趣味も全く違う。
「誰がこんな出鱈目を放送させたんだろう」
「何が幸運なのか問い詰めなければ気がすまない。場合によっては旅行社に文句でも言ってやる」
相馬はのんびり空を見上げてはいられない苛立ちを覚え洗面室へ飛び込んでいった。
手際が良かったのか身支度を整えキャスターの付いた大きなバッグを外へ持ち出すには思ったほど時間は掛からなかった。ドアにセキュリティキーを差し込み暗証コードを打ち込む。バッグを持ち上げ車のトランクへ押し込むと、わき目も振らず家を後にしていた。
 裾野に張り付いた狭小の耕地に青い実を付けて麦の穂が続くくねった車道から、幾本も立ち昇っているのがよく見える。乳白色の蓋は手の届く間際に降りて小高い山の頂きを隠してはいるが、薄明かりと共に少しずつ遠のいていく。濃密な湿気が動きを止めている中に、まるで中腹から湯気がゆっくり湧き出してでも見える。起き掛けに見えた雨上がりの山肌に立ち込める白い霧は、随分霞んで樹木や山々の輪郭を見せている。それを背景に太い湯気の柱が立っていることが奇妙に感じられた。眼を移しても同じように中腹や山際の彼方此方から歪んだ柱が望める。眼を凝らし見つめるほどにゆったりと上昇していく。
「こんな感じなのかも知れない」「静かに、ゆっくりと昇っていくんだろうな」 「行く先がどんな所か見られると良いんだが」
通い慣れた車道の先に目を戻すと、坂道の急カーブにハンドルを切っていた。抜けると薄靄の掛かった前方の眼下に街が見えている。早くもあったし休日も幸いしてすれ違う車はない。この分なら出発時刻には十分間合う。


第2節 建てた家

 リサーチトラベル社からメールが舞い込んだのは、三月程前の山裾の影に小さな残雪が隠れている時分であった。隣家も離れた狭い山道に配達夫が来ることすら珍しく、手紙をくれる友人の類とは疎遠でもあった。日も陰る頃、辿り着いた此処が探しあぐねていた所と分かると、ほっと緩んだ表情を見せ紫に縁取られた手紙を相馬に手渡していた。しかし、息継ぐ間もなく、相馬の勧めるお茶の誘いも振り切ると配達夫は矢のように山道を引き返して行った。
『それほど急いで帰ることもないだろうに。何が気に入らないのか知らないが』
相馬は小さくなっていく配達夫を見送りながら苦笑せざるを得なかった。
 この地へ来て三年余程が経つ。土地はただ同然であった。以前は3棟ほどが建っていたということだったが、今は、その面影さえなく背丈くらいの雑草が生い茂る荒れ地であった。農家の老人から只で良いからくれてやると言われたが、そうも行かず幾許かの礼金を差し出したのだ。が、相馬を手厚い歓待振りで迎えてくれたことに却って恐縮させられていた。次の日にはうきうきした気分で構想を練り上げ間取り図を書き上げていた。大工の居ない村から少し離れた街の工務店に「安くて良いから家を建ててくれ。」と依頼したが、場所を告げるなりあっさりと断られていた。
「知ってて何であそこに家を建てたがるのか俺には分からねえ」
「兎に角俺のところじゃ無理だ。他を当たってくれ」
棟梁は相馬の顔を繁々と覗き込んでは怪訝な表情を見せるばかりだった。 次に行った建築会社では罵声を浴びるどころでは済まなかった。
「何か俺達に恨みでもあるのか。内の若い者(もん)がお前に悪さでもしたのか」
「今度顔を見せたらただじゃおかねえぞ」
気の荒い連中に襟首を掴まれ外へ放り出された上、塩まで撒かれたのである。 何処へ行っても敬遠された。仕方なく二〇〇キロメートルも離れたキットハウスメーカーを訪ね一週間で完成する家を注文したのだった。二、三日が経つ頃作業員を引き連れ担当者がやってきていた。地盤強度を調べる貫入試験や地質調査が短時間で済むと、もう基礎工事が始まっている。速乾性コンクリートが乾く間もなく、内外装の仕上がった五つのブロックが組み合わされ、人気も疎らな山裾に明るい色調の家が忽然と建っていた。日用品や好みの備品を揃えるだけで何不自由のない生活が送れた。快適な暮らしが始まり、後は契約金の支払い期日を待つだけだった。が、一月ほど経ったその日、訪れた担当者と上司とも思える厳つい男は相馬を睨みつけ、ものも言わず請求書を突きつけていた。相馬は渡された封書の中を見て眼を疑わずにはいられなかった。そこには契約金額の倍の価格が記載されていたからだ。
「何かの間違いではないのか」「ここにある治療費や慰謝料とは何のことだ」
玄関先に睨む男達を見返し不快感を露にせずにはいられなかった。瞬きもせず無言で立つ上司はドスの利いた低い声で、しかし、丁重に話し始めていた。
「相馬さん、貴方が初めから知らなかったということであれば、私共は何も言わず契約金額通りを請求したでしょう」「しかし、貴方は知っていた」「お陰で私の部下である作業員の或る者は不慮の交通事故で大怪我をしたり、別の者は突然妙なモノが見え始めたと発狂し、病院送りになったりと散々な目に遭った」「この一月ほどで7人も怪我人や病人を出した。幸い亡くなった作業員はいなかったが、死にそうになった者は一人や二人じゃない」「どういうことかご存知ですよね」
上司の目は次第に険悪さを増し相馬に注がれていく。
「私は数学者じゃない。だが、誰が考えても可笑しいと思う」「そこでこの村の住人や隣町の建築会社を訪ね聞きまわった」「分かったんですよ。何故貴方が遠方にある私共の会社に発注したかが。ここがどんな場所かということが」「タイムトリップが可能となった時代に、このような話は馬鹿げているかも知れない。しかし、現実として起こっている」「貴方が知っていることを話してくれたなら私共も恐らく辞退したはずだ」「相互に知りうる事柄の正当な開示義務は契約書にも謳ってあるんですよ」「請求金額は決して高くはない筈だ」
上司の口ぶりには悔しさとも苛立ちとも見える憤りが感じられた。聞いていた相馬の顔から相手に対する不信感が消え去り、俯き加減に視線が逸れていく。まさかそんな事が、と思案する表情は引かれていく罪人にも思えた。
「相馬さん、聞いているんですか」「お支払い頂けるんでしょうね」
威圧する声に相馬は微かに頷いて、
「事実としたなら申し訳ないことをした」「まさかこの近代に」
少し間が空いて相馬の口から請求額どおりを支払う意思が告げられていた。
「では二週間後に残金を受け取りに参ります」
居間のテーブルに相向かいの上司は半金を受け取りながら、しかし、お礼の言葉も笑み一つ漏らさず事務的に終始している。
相馬はそれでも恐縮気味に、
「いや、ご迷惑を掛けた以上、残金は私が御社へお届けします」「それにしても現金決済とは今時珍しいですね」「尤も金融機関が何時破綻するか分からない時代では当然でしょうか」
ティーカップを受け皿に乗せ、目の前に差し出して和らいだ表情を見せた。しかし、上司も担当も儀礼のように無言でカップに口を付け終えると、すぐさま椅子を引き玄関口に向かい歩き始めていたのだった。
ハウスメーカーを信用しない訳ではなかったが、事故を確認したい、陥った状況を聞きたい衝動が絶えず相馬を悩ませていた。会ったところで自分を納得させられる理由など見つけられる筈は無いと思う。だが、噂を体験出来るかも知れないとわざわざ家を建てて住んでみようとした以上、他に及んだ事象はまたと無い事例でもあった。然も時間と共に色褪せ何時記憶の彼方に消滅しかねないゾーンとなってしまってからでは探求しようが無くなると。その週の休日には果物籠を手に病院を訪ね歩いていた。探し当て案内された病室には交通事故で療養中のクレーン技師が顔半分を包帯に巻かれ痛々しそうに横たわっている。手際よくキットを積み上げ難なく家を組み立てた作業員に間違いは無かった。ベッドに歩み寄ると転寝でもしているのか、目を閉じ微かな寝息を立てる五十絡みの顔を覗き込み様子をうかがう。相部屋は四つのベッドに四台のテレビがそれぞれ違った無声の映像を流している。横たわる男の耳元に外れたイヤホーンから映像に合わせた歌声が微かに漏れていた。包帯に巻かれた男の顔を眺めていると、
「起こしても大丈夫だ。昼寝ちまうから夜寝られねえ」「見舞い客なら文句は言わねえよ」
隣のベッドからギブスに支えられ足を宙吊りにした、初老の無精髭が気を利かせ顔を向けている。相馬は軽く会釈をすると屈みこんで、
「具合は如何ですか」
腰を折り張りのある声を出していた。転寝は直ぐ現実に引き戻され覗き込む相馬を訝しげに見返している。
「大変な目に遭いましたね。怪我の具合はいかがですか」
相馬の問い掛けに思い出したように眼を見開き、口を動かしている。
「何しに来た。と言いてえ所だが見舞金を貰った以上余り文句も言えねえだろう」「だけどわざわざ来ることはねえよ」「大分良くなってきたからな」
包帯男はスローモーションでベッドから起き上がると、
「俺は迷信や言い伝えなんざ信じちゃいねえ。おめえの性だなんて考えてもいねえ」「だから気にするな」「だが金は信じられる」
椅子を勧める顔の半分が笑っている。はだけた胸にたすき掛けに巻かれた幅広の包帯は事故の生々しさを残してはいたが、質問もしていないのに機嫌よくいろいろな事を相馬に話して聞かせた。事故の状況やら聞きかじった同僚の災難を見て来たように話す眼は、何かに取り付かれているようでもあった。引き込まれ何時しか相馬も相槌を打ち、べらんめえ口調に酔っている風もあった。久しぶりに大声で笑った気がした。聞いていて何かしら爽やかな心地がしたのは、この男の上司が慰謝料として請求した一部を見舞金にしたことや療養中の給与に充てたということばかりではなかった。仲間同士が良く結びついていると思えたからでもあった。後を絶たない話に終止符を打ったのは相馬の質問だった。ふと聞きたいことが脳裏を過ぎったからだ。
「妙なことを聞くようだけど、事故に遭う直前に何か感じたことは有ったのかい」
何気なく聞いた事が、相手を急に無口にさせる理由が分からなかった。避けるように顔を背け、思い出しては小刻みに首を振っているようにも見える。
「俺は何にも見てねえし、何にも感じてもいねえ」
「少し疲れた。もう帰ってくれねえか」
顔を歪め痛々しそうにゆっくり体を倒すと、毛布を半分の顔に被せている。 相手の気性が分かりかけた今、ことさら追及することは無意味に思え腰を上げると、「お大事に」小気味良い掛け声を残し病室を退いていた。
数人を見舞う予定は潰れていた。病院を囲む植え込みから長い影が伸びている。肝心の疑問に答えてはもらえなかったが、癒される思いがして我が家へとアクセルを踏み込み始めていた。
 翌々日が期日ではなかったが、気持ちの整理も付いた以上休みを取ることにした。当日、開くのも待ちきれず銀行へ直行し、有り金残らず下ろしていた。相馬にとって土地代がただ同然であったことが幸運だったのか、住んでみようとしたことが不運だったのか、手持ちの預金は綺麗に消えることとなった。キットハウスメーカーの入り口には上司だけが待ち受け、以前と違いにこやかに歓迎している。通された応接室に座るなり見舞いへの礼が述べられ感謝の意が表されたのだった。立て続けにキットの不具合や整備不足の有無を尋ねては賑やかさを振りまいている。相馬は意表を突かれた面持ちで聞き入るばかりであったが、残金の支払いを終え、腰を上げようとする頃にはそれまでの笑みは消え真顔に戻っていた。
「相馬さん、クレーン技師のあの男から託があります」
「別に気にすることは無いと思いますが、伝えてくれとのことです」
「三年後には相馬さん、貴方も同じ夢を見るだろうと。そんな気がすると」「あの男はそう言っておりました」
上司は再び笑顔を見せると立ち上がって深々と一礼し見送ったのだった。


第3節 ドームへ

 遠くに見えていた街を貫く一直線の高速道をアクセル一杯に踏み込んでいる。時折、直ぐ傍を明るい流線形がやすやすと追い抜き視界から消えていく。等間隔に車道を見下ろすナトリウム灯だけが目的地を目指す相馬を導いている風であった。やがて陽が上り始め、視界が開かれてくると景観は様相を一変させていた。街並みは消え開けた平坦な前方には頂上に明かりを明滅させる鉄塔が林立し、その高い櫓から押し寄せる長く伸びた高圧線は小高く盛り上がった数個のドームに引き込まれている。シルバーグレイの球体はさながら表面上に螺旋コイルを突き立てたいがぐり頭にも思えた。見渡す遥か先はネット状に張り巡らされた赤いフェンスが囲いを閉じている。近付くにつれ路肩の標識は目標地点を鮮明にしていった。標識に沿って、アクセルを緩めインターチェンジを降り始めると、その先はシルバーグレイに染まるドームへの専用道が伸びている。緩やかな勾配上を真っ直ぐに敷かれたグリーンベルトは、異次元を結ぶ蜘蛛の糸のようにも思われ相馬の胸を一段と高鳴らせていった。動きのない静寂と目の前の一色が奇妙に融合してでも見える。ベルトが切れ、車が吸い込まれる頃、そこには見上げる程の高さがあった。トラス構造がむき出しの鉄骨はより殺風景に人も疎な空間は更に場内を閑散とさせている。緩やかに車を止め見回す。だが、ここに旅行者らしき集団も付きもののバッグも見当たらない。矢張り早すぎたように思われた。ドームの中ほどで車から降りようとした時、不意に優しい響きが場内に木霊していた。
「相馬様、Dドームへお急ぎください。皆様お揃いです」「これよりご案内いたします」
動きを止め聞いている相馬の顔から怪訝な表情が浮かんでくる。繰り返される案内を相馬は理解できなかった。未だ時間には余裕が有る筈なのに。Dドームが集合場所だなんて聞いてもいないし、今朝のラジオ放送にしても腑に落ちないことばかりが起こっている。チリチリと敏感に沸いてくる棘は何だろう。薄黒い苛立ちは何故だろうと眉間に皺を寄せている。楽しいはずの気分が翻弄され意識が操られて行くようでもあった。相馬は車のシートに座りなおすと胸ポケットを探り送られてきたメールを取り出していた。国際便の如く色を違えた紫の縁取りが品格をことさら強調しているとも思えなかったが、横長の封書を斜めに朱書されたリサーチトラベルの社名と青い船体のロゴマークは良質なイメージをコマーシャルに載せている。数枚の案内資料にある選ばれた理由、旅程、参加人員数、集合場所等は、何度も見直し確認も済んでいるはずであった。居るところに間違いはないと思えたが、資料の写真は明るい雰囲気に満たされている。ここがどう見ても倉庫としか思えないのは、入り口を勘違いしたとしか言いようがない。自身の間違いと。そう納得しかけた時、入り組んだ頑丈な鉄骨が目の前に迫って来ていた。浮いた感じも飛び上がった勢いもなくドーム内を浮上している。慣性の付いた速度は開けた上部を越えて浮遊しているかに思えたが、車の外は濃霧を撒いたように視界が利かない。ほんの一時の遊泳は明るい光と急に掛かった荷重の感覚で今に引き戻されていた。出発ロビーには既に沢山の人達が荷物を傍にくつろぐ姿が見えている。ソファーに掛け飲み物を手に雑誌を繰る人、興味深くロビーを眺める人等、どの人を見ても余所余所しい所作に思えた。ロビーの奥には横になった卵の形をした巨体。扇形にせり出した発着場には青いトラベルシップが乗船を静かに待ち受けている。相馬の乗った車はロビーの端に着くや係員が矢のように飛んで来ると慌ただしく名前を確認し始めたが、名乗った頃にはバッグと共に貨物車に詰め込まれ揺られていた。急かされてロビーの中央に降ろされた時には、集団は機体に向かって歩き出すところであった。不安定に切迫した気分が冷めないまま集団についていく。と、誰かが追いかけてくる気配を感じ動きを止め振り返った。見ると肩に下げた小振りのショルダーバッグを揺らせ、厚手の名簿を手にしたコンダクターと思える痩せぎすの男が駆け寄ってくる。写真資料の中にあったトラベル社の案内役に思えた。近寄るなり挨拶もそこそこに、
「皆さん大分お待ちしたんですよ」「何かあったんですか」
笑みは漏れているが事務的な眼は冷めている。相馬は押さえていた苛立ちを止めようともしなかった。同じ背丈ほどの相手の顔を睨むと、
「私は予定通り、否、少なくとも案内にあった時刻より早く来たつもりだ」
「何があったか聞かれる筋合いはない。どういうことなのか聞きたいのは寧ろこっちだ」
静かに丁寧に話したつもりだったが自分の耳にさえ感情の高ぶりが伝わってくる。
「朝の放送にしても本人の了解を取ったのか是非聞きたい。然もあんな出鱈目な内容をよくも堂々と」
相馬の一段と高く張り上げた声は集団を振り返らせ立ち止まらせていた。コンダクターは怯む様子も見せず冷めた眼は、更に抑揚のない乾いた声を後押ししている。
「出発時刻や集合場所も変更のお知らせをさせて頂きました」「通信と郵便の両方で」「共に着信、受け取りの確認をさせて頂いております」「それに今朝の放送も皆様から受け取った内容を承諾の上、そのまま流させて頂いただけです」
コンダクター氏は、注意力散漫は貴方のほうですと言わんばかりの顔付きを見せ、
「兎に角急ぎましょう。出船の時刻は過ぎております」
言い残すと小走りに船へと向かっていった。


第2章 訪ねて


第1節 船内へ

 乗り込んだ船内は白色光に溢れ、影の見当たらない空間に青いエスカレーターが伸び、そこから五層のフロアーが横に続いている。各々のフロアーには独立した透明な卵十個程が整然と並び、透けて見える卵の内部には机や椅子、ソファー、ベッドが置かれ、その奥には洗面室、浴室も用意されているようであった。よく見ると置かれている備品の配置も数も一様ではなかった。複数が居住出来るよう整えられている卵も見受けられる。待機していた係りは乗船者を手際よく卵の個室に誘導していく。相馬が案内された三階の奥は単身者向けの卵であった。柔らかな足元に暖房の効いた明るい部屋は、一人が居住するには快適な丸い空間と思えた。係りはクローゼットにバッグを収納し「楽しいご旅行を」と言い残して次に待機する乗船者の元に向かっていった。係員の出て行った卵の入り口が閉まると、全くの無音状態の中ですることもなく、ソファーに体を長々と仰向けに横たえる。焦点を結べない真っ白な天井は弧を描いているとも見えなかったが、手を伸ばしても届きそうにない深い明るさが、妙に居心地を不安定にしている。首に手を回し眺めているうち、食い違いに意識が向いていった。と同時に不可解なその日が蘇って来た。
『通信は常時オンラインだったのに、あの日は画像が乱れ送受信状態は最悪だった』『何が書いてあったのか不明瞭だったし、送信もしていないのにメール済みの表示が出たのは可笑しかった』『あの日に限り風もないのに郵便受けの口が開いていた事も解せない』『調べても全く異常が見つからなかったのは一体どう言うことなんだろう』
声にはならなかったが拘りを捨てきれないでいる。同僚から渾名される性格が災いをもたらしたことが有ったとしても気にはならなかった。それが生きてきた誇りと感じてもいた。何事も数式通りに、計算結果に間違いなどあろうはずは無いと。彼に染み付いた生き方でもあった。静かに巡らせている片隅に微かな物音の近付いてくる気配がして咄嗟に身を起こした。音はソファーと合い向かいから聞こえている。薄くくすんで平坦な2mもある幅広の机上から。それも頂部にマイクの突き出たディスプレイとも思える横長の箱からであった。次第に音を大きくしていくと画面にゆらゆらと現れ輪郭を鮮明にしていく。計器盤とも操作盤とも思える厚みを持った丸い円盤は手のひらに収まる大きさであった。浮いていた円盤が箱から飛び出し机上にコトリと小さな音を立てる頃、卵の部屋にコンダクターの案内音声が響いてきていた。
「ご案内します。母船は間もなく発進いたします」「食料品や医薬品は備え付けてありますが、衣類等は各自ご用意のものをご使用ください」「但しクリーニング屋は待機しておりません。悪しからず」「尚、直前に各チャイルドシップへテレポートさせて頂いた時空域位置検索器は紛失なさらないよう願います」「無くされますと帰還が困難になる場合がございます」「帰還したくない方は別ですが」
コンダクター氏の声は上機嫌に聞こえて来る。銘々が自由に、許される好きな期間滞在し、行動できるツアーなど無かったのは知っていたし、選ばれてここに居る参加者が無料の招待者であることは、確かに旅行社の計らいでもあった。相馬に届いた理由も振るっていた。メールに同封された便箋には黒地に白抜きで《強運な貴方の探し物、お手伝い致します》と書かれ、その下には幼少から現在に至るまでの履歴や出来事も細かく記されていたのだった。本人でさえ忘れかけていた些細な事実の列挙はある意味頷けるところでもあったが、何故リサーチトラベル社が詳細を調べ上げ、肩入れしてきたのか相馬には釈然としない事であった。送られてきた案内だけでは分からないこともあったのだ。    旅へ誘う案内役の上機嫌は続いている。
「母船は時空域に留まり皆様を送迎いたしますが、決して因子を持ち帰ってはなりません」「この規則を破った者は多大な犠牲を払うこととなります」「くれぐれもご注意願います」「お待たせいたしました。出発の準備が整いましたので、これより発進いたします」
コンダクター氏の声に合わせるように甲高い金属音を震わせ、青い母船は歪んだ時空域に突入していった。


第2節 コンダクター氏の説明

 「漸く旅が始まったな」
「彼は見つけることが出来るのかしら」「どう思われます?」
「・・・・」
「何故答えて下さらないの?ご存知なんでしょう?」
「集まった方々も興味がおありのご様子なのに」
「先を急ぐこともあるまい。まだ時間はたっぷりある。ゆっくり見物しようじゃないか」


 軋んで僅かに揺れている母船の振動が感じられたが、次第に音も消え体に加わっていた荷重も解放されていく。相馬は到着地点まで大分時間が掛かるように思え、その間に確かめておきたい幾つかの疑問を浮かべていた。机上のテレポート装置に近寄っていく。送られてきた資料によればこの装置には映像・通信システムや情報検索システムも兼ねているはずである。コンダクターの声もここから出ていたに違いなかった。椅子に掛け考え込んでいるようであったが、マイクに向かい合うと、
「C‐39号機、相馬です。先程は失礼した。私の不注意でご迷惑を掛けた事、お詫びする」
確信を持った本音ではなかった。だが、リサーチ社が偽りをでっち上げる理由が見つけられなかったのである。応答はまたしてもあのコンダクター氏であった。先程と違いディスプレイ上には目を細めた顔が映し出されている。
「気にされることは御座いません。それほど支障にはなりませんでしたので」
上々の機嫌は続いているようであった。
「実は幾つか聞きたいことがある」「答えてもらえるだろうか」
躊躇の様子が間を置かせていたが、
「お答えできる範囲でよろしければどうぞ」「ただ、それほどお時間は御座いません」
声のトーンも幾分下がって相馬の耳に届いた。
「チャイルドシップにはどんな人達が乗船しているのか、何処へ行こうとしているのか知りたいんだが」
当たり障りのない質問を選んだつもりだった。
「乗船者のプライバシー情報に関してはお教えできませんが差しさわりのない範囲でお答えいたします。ご参加頂いた人は全て相馬様と同様、何らかの拘りをお持ちの方ばかりです」「いわば探求者の集まりとでも言うべき人々です」「行く先は様々ですが稀に時間軸が重なり、同じ時空域に遭遇することもあると思われます」

「具体的にはどんな拘りを持っているというのかね」
矢継ぎ早の質問はコンダクター氏に言葉を選ばせているように思えた。
「乗り込んでいる科学者の或る方は最も小さい素粒子は何かと、女性の方の中には色、食、情と言った事柄、別の人は命、又他の人は人類の未来と夫々様々です」

「母船にはチャイルドシップが五十機程有ったが、全ての乗員が異なる拘りを持っていると言うのかね」

「そういうことでは御座いません。拘りと言う概念は往々にして変更を余儀なくされる場合もあり、違う目的では有っても収束点が同じ所に到達することも有り得ます」「従って全てが異なるとは申し上げられません」

「夫々が拘っている目的を探し出せる、或いは見つけられると思うのか」

「目的の到達点に立てるかどうかは分かりませんが期待しております」

「私が一番疑問に思うのは、何故貴方の会社が我々をこんなにも支援するのか分からないんだが」

「貴方の疑問はご尤もです。然しながら、私共は皆様のお役に立てることが出来れば何よりと考えております。ただそれだけです」
「そろそろ時間が参りましたので質問は打ち切らせて頂きます」
通信は一方的に切られ画面から作り笑いが消えていった。箱が静まると出発時に感じた荷重が足元に掛かってくる。動けない程の拘束力では無かったが何処かへ着陸しようかと思える重さであった。随分過去に一度乗った飛行機の着陸時より遥かに快適であるし、ソフトランディングはトラベル社が培ってきたテクノロジーの信頼性を高めているように感じられた。机上の前方に眼を向け透けた卵から母船内部を見渡すと、整列したチャイルドシップの船内には、複数の人達が目的地に見合った身支度を整える様子も伺える。コンダクターの言う学者風の中年や相馬と同年に思える女性、苦虫を咬んで目つきの鋭い老人達と悪く言えば一癖ありそうな拘りの集団とも思えた。
「いよいよ旅の始まりか」「何処で見つけられるか、感じられるのかは分からないが探してみる価値はあるだろう」「気長に探すさ」
相馬は机上に現れた円盤をチョッキのポケットに押し込むと、クローゼットから引っ張り出した旅行用のバッグを開け始めていた。


第3章 子供の頃

 風が騒ぐ木立の中でもみじ色に染まる歪んだ枯葉が散り始めている。帯を吹流して舞う文様は乾いた音を連れながら大きく広がり空へ散らばっていく。未だ陽射しと冷気が共生している時節ではあった。都会から女の子が転校してきたのは秋風の吹き降ろす乾いた日だった。五十戸ほどが散らばる山村は湖から流れ出るせせらぎと山鳥の鳴き声が木霊する偏狭の地と言えた。樹木やコケに浄化され澄んだ空気とミネラルを豊富に含んだ湧き水は、何時でも何処にでも見つけられる交通の不便で自然豊かな過疎でもあった。分校から北へうねる山道を登り詰めると十数枚の棚田を前に伯母の家はあった。山を背に東を向いて分校が見下ろせている。女の子がたった一人で、身寄りの伯母に引き取られ田舎に来た本当の理由は、直ぐには明かされなかった。髪を三つ編みに結い上げきりっと結んだ口元は気の強そうなおてんば少女を匂わせているが、丸く見開いた瞳とつんと上を向いた上品な鼻は何処かお嬢様の香りを漂わせ身の上に起こった過去を隠していた。身なりを整え伯母に付き添われて分校に顔を出すと、子供達はおろか教職員までもが息を呑む空白の時間があった。山村の子供たちには見られない優雅な物腰と優しい眼差しを遠方へ投じる仕草は、到底十一歳の子供とは思えなかった。一クラスしかない教室に十七名が学年を交えて学ぶ分校に、教員が七名と技術員が赴任する山奥の村に、突如飛来した子供は辺りの空気を熱いものにしていた。差し障りの無い転校の理由は前以って教員達に知らせてあった。五年生を担任する女教師は静けさを払い除けるように女の子を手元に呼ぶと、
「今日から皆と一緒に勉強をすることになった菊原 藍さんです」「体が弱いため環境の良いこの村にやってきました」「皆も菊原さんの健康が回復するように協力して下さい」
担任は肩に手を添え女の子を軽く前へ押し出していた。促されるように二、三歩踏み出すと丸い瞳を更に丸くしてこう言ったのだ。
「ここには自然が一杯広がっていてとても素敵」「魂の宿る自然が」
「ここならきっと私の体も良くなると思います」「一生懸命皆さんと仲良くする努力をしますので宜しく」
歯切れ良いオクターブの高い心地よさが室内を駆け巡った。嫌味に聞こえなかったのはその笑顔に魅せられたこともあったのだろう。分校の子供達は取り囲むと授業もそっち退けにはしゃぎあい、転校して来たばかりの藍も子供らしく直ぐに馴染んでいった。子供達同志の会話は家族や住居を教え合い瞬く間に一体となっていく。数日が過ぎる頃には野山を駆け巡り熟れたアケビや山葡萄を頬張っている姿があった。活発な動きは体が弱いなど何処吹く風のようにも見えたし、憂いを含んで遠くを見ていた瞳は今では近接した焦点を求めているようであった。数週間が経つ頃になると遊び相手も特定され、同じ年頃が寄り添うようになっていったのは、相性の良さが有ったのかも知れない。藍は伯母と住むようになってからそれまでしたこともない家事や用事を言いつけられ、その度に不平も言わず小さな体を小まめに運ぶ姿が見受けられていた。地域の子供達がしていた極当たり前のこととして藍も率先して働いたのだった。
 秋も深まり傾いた長い影が椎の樹の周りに揺らいでいる。二つの影は、伸びては縮み樹の下にダンスを踊っているかのようだ。老木に見える椎が何時から屋敷裏に根を下ろしたのか孝雄には分らなかった。何でも教えてくれる曾婆ちゃんも、孝雄の質問に窮したように思える答えしか返してはくれなかった。村では物知り顔の古老でさえ、
「そうさなー、幹周りや枝振りからして二、三世紀は生きていると思うんじゃが、わしにもよう判らん」「兎に角目出度い樹なんじゃ」
要領も得ずはぐらかされはするが、毎年のように大粒の実を付ける村一番の椎の樹は自慢の種でもあった。
「孝雄君、この実は食べられるの。どんぐりみたいだけど」
小さな手のひらには拾い集められ、こぼれんばかりの褐色の実が乗っている。 「あら、この痩せたどんぐり君、お腹に穴が開いている」
丸く空いた小さな奥を覗こうとして顔を近づけた途端、手の上の小山は崩れ、落ち葉の上に不連続の乾いた音を立てている。
「この笊に入れるといいよ。持ちきれないから」
笑い声の後から落ち葉を踏みしめる足音が近付いてくる。こぼれ落ち枯葉に埋もれた実を探す丸い眼は何時になく真剣そのものであった。
「このまま煎って食べると美味いんだ。伯母さんに言えばやってくれるよ」
孝雄は藍の目の前に笊を置くと肩を並べて実を拾い始める。黙々と実を探していたが、枯葉を払う手が止まると思いついたように、
「俺、ずっと前から気になっていることがあるんだ」「聞いちゃ悪いと思って黙っていたけど」
孝雄はしゃがみ込み無心に実を捜す丸い眼を横から覗いている。枯葉が絡みつく三つ編みの髪を揺らし孝雄を振り返ると、
「聞かれて困ることなんか無いよ。どんな事」
樹の実を捜す藍の眼が向いている。
「今まで親や兄弟のことを話したことが無いと思うけど、両親は何処に住んでいるんだい」「何故都会からたった一人で治療に来たのか俺には分からないんだ」「俺が見る限り体が弱いなんて思えない」
気丈で明るく活発な同級生。然も利発でたくましさを備えたお嬢様の印象が、孝雄を率直な疑問に走らせていた。藍の丸い眼が少し細く見え顔つきが険しくなった気がした。引き締まった口元には寂しさが漂っている風に思え孝雄を動揺させ始めていた。女の子になんて馬鹿な質問をしたんだろうと。
「否、別にいいんだ。どうしても知りたい訳じゃないんだから」
孝雄は慌てて話を打ち消そうとした。
「もう大分日が陰って寒くなってきた」「納屋に昨日採って置いた籠があるんだ」「今日はそれを持って帰るといい」「又遊びに来るときがあれば一緒に拾ってあげるよ」
藍の瞳は考え事をしている風にも見えたし、突然泣き出すかもしれない予感もあった。こんなところで泣かれでもしたらきっと親に小言の一つや二つは言われ兼ねない。厳格な親爺は小言どころでは済まさないだろう。もし学校にでも知れたなら、理由は何であれ、仲間からか弱い転校生を傷つけた卑怯者と有難くない謗りは免れない。そう思えて孝雄の表情は言葉とは裏腹に暗くなっていった。
「今は何も話したくないの。何時かは知られる時が来ると思うけど」
立ち上がってズボンに張り付いている枯葉を払い落とす仕草は何時もと変わらない快活さがあった。「家まで送るよ」と言う申し出を断ると、籠を大事そうに抱え小さな手を振りながら薄暗い山道を帰っていった。見送っていたが、三つ編みに揺れるお下げ髪が山の陰に隠れる頃になると、足音を忍ばせ気付かれないように付いていく。人一人が通れる曲がりくねった裏山の一本道の先には何箇所かの枝道もある。2,3度遊びに来たことはあったが何れも陽の高い日中だった。暗くなるほどに間合いを詰め忍者の気分を味わっている。人家も無い薄暗い道を間違えもせずひたすら歩き続けるうち、伯母の家の坂道を登って行く藍の姿があった。家の戸口にたどり着くと来た道を振り返って、胸の前で小さく手を振り明かりの灯る入り口に消えていった。
見届けて家に戻ると空腹を誘う上手そうな夕餉の匂いが立ち込めている。
「孝雄、今何時だと思っているの。何時まで遊び呆けているんだろうね、お前は」
勝手口から忍び込むようにして入り込んだ息子を見咎め、母親は小言を繰り出している。
「最近、村内に見慣れない怪しい人が居るらしいって駐在さんが注意に来たばかりなのに。もしものことがあったらどうするの」
母親の剣幕は外へ届かんばかりに厳しく響いていた。
 二日程が過ぎると雲一つ無い晴天に恵まれた休日が明けている。孝雄が知っている、取って置きの秘密の場所へ案内するその日が来ていた。そこは流れ落ちる滝の音と水しぶきが舞い上がる滝壷が望める対岸の絶壁であった。だが、子供には危険と親も学校も登ることを禁じている場所でもあった。孝雄がそこから滝壷を覗いたのは三年も前の、ガキ大将だった上級生に誘われた時が初めてであった。興味本位に見下ろした水しぶきを上げる青白い淵は、吸い込まれそうになるほどの深さに恐怖感を覚えたものだった。それ以来親の目を盗み度々登っては雄大な絶景に陶酔する自分を見出すこともあったし、奥深い懐に抱かれ同化し溶け込んでいく錯覚さえ感じたものであった。だから見せてやりたかったのである。
「大滝を見に行くのはいいが、絶壁や淵には決して近付いてはいけない」と、きつく釘を刺されはしたが、二人分の握り飯と水筒を持たされ急ぎ足に家を出たのは大分陽が高くなった頃であった。子供の足でも半時もあれば見に行ける近い場所であったし、立ち入り禁止箇所以外なら安全な事が分かっていたからでも有った。忙しなく追われるように歩く先にはもう分校の屋根が山際に顔を出し始めている。赤土の切り立った山肌を廻り込めば間もなく到着すると思うと自然に加速も付いてくる。潜り抜けて棚田を見上げる坂道に、小走りで駆け下りてくる藍を見つけた孝雄は、何だか嬉しいような楽しい気分が沸いてくる心地がした。詰まらない疑問を投げかけ寂しい思いをさせたと言う感傷は、二日経っても孝雄の頭から離れようとはしなかったのである。息を弾ませ駆け寄ると、
「あんまり遅いから忘れたのかと思ったよ。女の子を待たせるのは失礼よ」
藍は丸い眼を更に丸くして愛嬌たっぷりに口を尖らせた。動揺する孝雄を尻目に軽やかに飛び跳ねる様子は二日前のことなど微塵も覚えている風は無かった。 分校を横目に東へ進んでいくとなだらかに傾斜した下り坂が待っている。並んで歩くに十分な道幅は葉を落とした雑木林の中に細く消え視界は利かない。枯葉を踏みしめる乾いた音だけが聞こえている。二人とも随分黙って歩き続けていたが、
「この前は家まで送ってもらって有難う。椎の実は煎って食べたけど美味しかったよ。落花生とは違う単純な味だったけど」
話しかけられた、その数秒で孝雄の顔に笑みが戻っていた。
「送っていったなんて誰が言ったんだい。母ちゃんにも言ってないのに」 照れ隠しに額を掻いている。
「藍はこれでも結構耳は良いんだよ。孝雄君は藍を見失うまいと夢中だったから気付かなかったのよ。自分が踏んでいた枯葉の音に」
眼を見開き澄ましている。
「初めは誰が追ってきているのか分からなくて怖かったんだ」「でも直ぐ孝雄君だと分かって安心したんだ」「だって隠れ方が下手なんだもの」
屈託ない笑い声は孝雄の心を躍らせるには十分だった。
「のどが渇いたらこれを飲むと良いよ」
ぶっきらぼうに、首に提げた水筒を渡そうと突き出した途端、紐が絡まり危うく転倒しそうに足を縺れさせている。首から水筒を外す顔は少し高潮して眼が潤んで見えた。苦笑は二人を近づけていた。それからの道中は今までに起こった遊び仲間との失敗やら親に叱られたこと等取りとめも無い話が続けられていた。しかし、藍の口からは身に起こった過去が漏れることはなかったのである。山を下りきる頃になると微かな水音と共にひんやりとした空気が感じられてくる。木立が途切れ急に視界が開けると、目の前には高い岩場から白い崩落が勢いよく孤を描き空中に霧状の水滴を撒き散らしている。水しぶきの上がる青白い淵の周りには時として落石でもあるのか、立ち入りを阻むロープと柵が取り囲み人を寄せ付けようとはしない。二人の位置からでも景観は絵になるくらいの構図であったが、道を逸れ左に迂回して駆け上がれば視界は更に広がる秘密の特等席である。今立っているこの場所でも孝雄にとっては季節を問わず何度も見慣れている景色のはずだった。飛散する霧が岩場を回り込んで吹き抜ける風に煽られ虹を見せることもあったし、滝壷に注ぐ連続した崩落の響きが躍動する実感を掻き立てる場所でもあった。陽の光を受けて広がる褐色の木立も何ら変わりはないと思われた。それなのに妙に動きを封じられているように感じられ立ち尽くし佇んでいる。隣には口を閉ざして上空を見上げる藍も動こうとはしない。こうしていることが自然のように感じられたことが過去に有っただろうか。意識を持たない孝雄の目は既に焦点を逸れ顔は表情を失っている。一言も交わされることの無い時間がゆったり流れて行く。と、静かだった風が木立に吹きつけゴーッと騒いだ途端、藍が甲高く何やら叫んでいた。木々を揺らす耳障りな騒音で孝雄には良く聞き取れず、ぼんやりと隣へ無表情を向けた。藍の眼は未だ丸く見開かれ顔は滝壷に向いている。少しずつ今までの束縛が嘘のように解けていくようだった。
「どうかしたの」
かすれた声をかけながら滝壷に視線を合わせて孝雄は眼を見張った。白い崩落が生み出す波紋に浮き沈んで茶系の上着らしき衣服が見えたのだ。眼を凝らすと揺れる波間には顔も手もあるようだった。鼓動は一気に早鐘を打ちいたたまれず藍の見たままを聞きたい衝動に駆られていった。
「人が浮いている。さっきまで何も無かったのに」
孝雄の口調は何時に無く震えて藍に届いた。
「男の人。あそこから飛び降りたの」「もう死んでいる」
藍は空に向かって突き出た滝口を指差したが、もう丸い眼も高い声も見当たらなかった。
「死んでいるかどうかは分からないだろう。誰か呼んでくる」
強い口調で打ち消そうとした孝雄に、
「藍には見えたの。両親がそうだった時と同じ様に」「白いモノがスーッと上っていくのが見えたの」「飛び込んだ直ぐ後に」
二日前に会ったあの時の藍が又ここにいる。沈んで浮かない眼差しが戻ってきている。孝雄は幾重にも押し寄せてくる棘に動揺しているようだった。それは図らずも藍の身の上に起こった悲しい出来事がまさに再現されたように思われたからだ。
「大人を呼びに行って来る。お前も一緒に行くか」
手に負えないことは兎に角知らせる、が第一番と教えられていた。
「藍はここで待っている。誰か居てあげた方がいいよ」
「別に怖いことなんて無いんだから」
今にも駆け出しそうな孝雄の背中を後押していた。
滝壷に注ぎ落ちる水音も陽の光に照らされた森の奥にも長閑な安らぎが横たわって過ぎている。季節にしては柔らかい風が葉を落とした小枝に纏わり付いて小さく揺らす。何時もある山奥の時がゆったり過ぎていた。数人の足音に混じり孝雄の声が聞こえてくる。両親や近所の父兄達が慌ただしく坂を駆け下りてくる姿があった。藍にはそれほどの時間が経ったとも思えなかった。腰を下ろしひざを抱えて見つめる傍を大人達は走り抜けていく。はち切れそうな制服を着込んだ駐在も顔中に大汗を掻いて走ってくる。
孝雄は藍の前まで走りこんでくると動きを止めひざに手を付く。荒い息が止まらない。今にも倒れそうなほど青ざめ絞り出した言葉は要領を得ないものだった。
「大丈夫か」と言っている風に藍には聞こえた。
「ずっと走り続けてきたの。大変だったね」「藍の隣で横になると良いよ」
労う顔には以前の丸い眼が戻っている。孝雄は山道を外れ落ち葉の上で仰向けに崩れると暫らくは声も出ない様子だった。動悸が収まる頃、遠くに大人達の掛け声が聞こえて来る。斜めに体を起こして滝壷を見ると、数人がかりで岩場へ引き上げるところだった。孝雄も藍も無言で眺めている。思いついたように孝雄はその場へ座りなおし藍を向くと、
「この間は御免な。詰まらない事を聞いて。悪気じゃなかったんだ」
孝雄は眼を見ていられなくて大人達の方へ顔を戻そうとした。
「もう良いの。思い出したくはなかったけれど」「父さんも母さんも藍には優しかった。バレーや乗馬のお稽古にも通わせてくれたし、お花やお茶も習わせてくれた。毎日が楽しくて仕方がなかった」
「でも、父さんの会社が上手く行かなくなって倒産したんだって」
「ビルの屋上から二人揃って飛び降りるところを偶然見たんだ」
「藍一人を置いて」
藍の顔が曇り見開かれていた瞼が閉じてくる。気丈だった目元が潤んでくると藍の眼に涙が溢れていた。
「哀しい時は泣いても良いんだよ。わあわあ泣いたら一回り人間が大きくなれる。家の曾婆ちゃんが何時も俺にそう言っているんだ」
言い放った孝雄の声も少し濡れている。それっきり二人とも話を続けようとはせず、引き上げた男に群がり大人達が必死になって蘇生術を施している様子を見つめている。大人達は暫らくすると諦めたようにしゃがみ込んで何やら相談している様子に思えた。善後策がまとまったのか、皆が一斉に立ち上がると慣れた手つきで木々に蔦を絡み合わせ簡易な担架をこしらえ始めていた。
「孝雄君、死んでいった人の気持ちが何処へ行くのか分かる」「悲しい気持ちや悔しい気持ちが何処へ行くのか、何処へ集まるのか」
藍の眼は未だ潤んでいたが大きく見開いている。ひざ小僧を抱きかかえながら孝雄の返事を待っているようだった。
「俺はそんなこと考えたこともない。お前が分校に初めて来た時言っていた事だろう」「何故そういう風に思うんだい。」
考えも付かない質問に横顔を見つめ続けた。大きな目は澄んで果てしない彼方を臨んでいるようにも見えたし、細面に上品な鼻やクルッと巻いた睫毛が愛らしく思えて何か答えてあげなければと胸が熱くなっている。
藍は孝雄の質問には答えずじっとしている。
「何処へ行くのか、集まるのか俺には分からないし、そこを見たいと考えたこともないんだ」
孝雄はそう言いながらも気遣う風に、
「悲しい気持ちや悔しい気持ちは何時か楽しい気持ちに変わるんじゃないのかな」「もし見つけたら真っ先に藍に教えてあげるよ」
孝雄にとっては珍しく少し大人びて話しかけたつもりだった。藍の眼が瞬きをしたように思え、すまし顔が緩んで見えていた。


第4章 探索


第1節 星の入口

 ジーンズにハンティングシャツと革のチョッキが似合うとは相馬も考えてはいない。少し背は高いが何を着ても様にならないことくらい自身が良くわきまえている。着替えて素通しの母船内部に目を遣るとチャイルドシップが次々と消えていく。白い卵に青白い磁場が張り付き歪みの中に消滅していく。後には卵を支えていた四本の支柱が残されているだけだった。数機を残して、もう殆どの船が母船を飛び立っている。相馬は椅子を引き寄せ机上の通信兼テレポート装置に向かい合うと、
「C-39号機の相馬です。準備完了しました」
相馬の発信にすばやく答え、あのコンダクター氏が顔を現す。にこやかに然も落ち着きのある口調が聞こえてきた。
「いよいよ長年の夢が叶うべき時が遣ってまいりました」
「先ずこれからについてご案内します。チャイルドシップの機能はお送りした資料でご理解頂けたと思います。又、操縦については別の訓練基地で実技講習を受けられ何とか認定試験に合格されました」
「航空局の基準が煩いので相馬様には閉口されたかと存じますが、予定通りご参加頂けた事に安堵いたしております」
コンダクター氏は一瞬意地の悪そうな笑みを浮かべたが表情を元に戻すと、
「私共は、相馬様の目的が実現することを心からお祈りしておりますし支援させて頂きます。又、弊社にてご案内の通り、リサーチ論文の寄稿を心待ちにしております」「尚、緊急時や不明なことがあれば何時でもお呼び出し下さい。では体調に留意し、良いご旅行を」
箱に音声もコンダクター氏も消えると卵に微振動が伝わってくる。明るさが足りなくなった感じがした。部屋の明かりだけで照らされている。そんな閉塞感を受けながら揺られている感じだった。既に卵の外は真っ暗になっている。それほどの時間ではなかった。正面のディスプレイに小さく歪んだ景色らしい映像が浮かんでくると、相馬の乗った船にも急に外明かりが入り込んでくる。空域に静止しているようだった。窓に近寄り眼下を覗き込む。外は一面に砂地が広がる目標物など見当たらない不毛の地と思えた。水も植物さえも見当たらない砂丘に照りつける日差しは、遠くに蜃気楼を生み出している。地平線に揺らめいている褐色の連なった塊が自然の造形なのか人工物かは判別できない。漠然と眺めていたが思い出したようにデスクに近寄ると、呟きながら机上の右隅を物色し始めた。間もなく目立たないが机上にボタンを探し当てると操縦アームを立ち上げる。地上を映すディスプレイを見ながらの操作はゲーム機のバーチャルリアルティー世界と似ている。アームを進む方向へ傾けるだけで自在に飛べたし加速することにも難はなかった。が、その手つきはゲーム機の苦手な相馬にとって、恐らく参加者中で一番訓練時間を要したことは想像に難くなかった。
『一瞬に時空を越えることも有視界飛行をすることも出来るなんて考えられないよ』
子供時分に想像した乗り物が訓練時と同様にまたもや目の前にある事が信じられなかった。
『砂漠化は未来の技術でも阻めないのか、或いはそうならざるを得ない摂理でもあったのか、この状況下では分からない』『もし人類や生物が居なかったならもう少し前に時を変えるしかないだろう』
灼熱砂漠の地表を高速で移動する船中の相馬は、予想社会とは違う環境に戸惑いを感じながらも進む先に期待を求めていた。自動操縦に切り替えアームの後部へ補助機能タッチパネル盤を立ち上げる。大気の組成や気象状況を計測する必要があったからだ。船内への入熱や紫外線防御のため遮光バリアーもステルス機能も一緒に起動させたが、先進未来にどれほど効果があるかは分からない。
『大人の社会へ子供の玩具を持ち込むようなものだろうな』
何だか滑稽に思えて仕方がなかった。椅子に座りなおしパネル盤を離れ眼下に視線を投じると、砂丘を駆け抜けていく黒っぽい影が尾を引いていく。音もなく巨大な翼が陰を作って飛んでいったと感じたが、視界の何処を探しても見つからない。
『気のせいなんかじゃない。間違いなく高等生物が住んでいる』
『先進社会が過去の人類に対し友好的だといいんだが』
相馬には旅の誘いが掛けられる以前から或る疑念が燻ぶっていた。現在のトリップ技術が未来社会へ受け継がれていたらどうなるのか。未来の新しい発見や技術を、過去が先取りし文明をより進化させたならその未来はどうなっているのだろうかと。ギャップを埋められず、人類社会が急速に崩壊していくのではと危惧したからだ。
『黒い影が飛んでいった先には生物が住んで居るはずだ』
操縦アームを握るとゆっくり方向転換し始めていた。一面の広がりを見せる砂丘が世紀を超えて形成された理由や、痛いほどに射し込んで来る陽の光が何時頃始まったのか等、知りたくなることは多々あった。何ら代わり映えもない前方を凝視する相馬に、期待とは裏腹な想像が浮かんでは消え、消えては湧き上がってくる。
『矢張り急速な温暖化は著しい環境破壊と生命体への影響は避けられなかったのか』『爆発的に増えた人類は食料を奪い合い淘汰されたんだろうか』
茶褐色がうねる砂丘を前に呟く。こういう状況を想像していなくはなかったが現実として受け入れがたいことのように思われた。遠方に目を移すと地平線上に黒い塊が連なって揺らいでいる。蜃気楼に浮かんでいた褐色よりもはっきりとした黒い造形であった。それまで無気力だったアームを握る腕に力が入る。萎えていた青菜に雨が降り注いでいる。形が鮮明になる頃それが構造物の影だと分かった。その手前には青々とした緑の絨毯が。大気に溶け込む乳白色をした構造物群は周りに敷かれた白い砂利と一体になって見える。葉を茂らせた熱帯樹も整然とした区画上に並んで陰を作っている、広場に吹き上げている噴水は空高く霧を撒き散らす。緑も動く息遣いも感じられ一人でいた虚空の時間を忘れるほどだった。アームを停止位置に戻し振り返った時には既に砂丘は無く街の中央に滞空していた。ヒエログリフを刻んだ尖塔が幅数百メーターはある磨かれた石畳を見下ろし、その先にはS字に数個の円筒形を繋げた建物が待っている。象徴的な建造物と思えたのは、シンプルではあったが古代の神殿に似ていると感じられたからである。動く気配のない広場は威を備え近付くことを許さない厳粛な趣もあった。神殿を取り囲む外郭は黒ずんで見える樹林が厚みを作っている。何処か適当な場所へ着陸し街の様子を見学したかった。生き物のいるそれも人類かも知れない高等生物の住む地上をいち早く歩いてみたかった。着陸地点は目立たない場所をと、探るように慎重に降下していく。神殿の片隅でも良かったが、神聖な場所と咎められでもしたなら帰れなくなる恐れもあった。あのコンダクター氏が助けに来てくれるかどうかは怪しいものである。いっそ目立たない樹林を選んだほうが賢明と安易に即断したのだった。減速しながら見下ろす斜めに船が着地できそうな薄暗い空間が開けている。吸い寄せられるように引き込まれていく。生い茂る枝や葉脈を浮き立たせた肉厚の葉に触れることもなく降下していった。暗がりは前照灯を点けるほどではなかった。何度も練習した通りの操縦の筈がゴムまりの上に着陸したようだった。眼が慣れてくると暗がりを作っている樹木の高さに圧倒され、更には降りてきた空間がいつの間にか木々の葉や枝で閉じている事に驚かされた。まるで初めから船を包むように樹が生えているような錯覚に捕らわれていた。
『一々驚いていたら探索なんか出来ないもんだ。踏み込んだ以上なるようになるさ』
勇気を奮い立たせる。船内に外界大気の異常を知らせる警報も注意報も出てはいない。ドアを開ける。と、直ぐに茹だる様な熱気が入り込んでくる。相馬はしばし考え込んでいたが、外に踏み出した時には小振りのリュックを背負い服装も軽装に着替えていた。樹林の間を抜け神殿とは反対側の建物群を目指し歩いていく。建物郡は上空から見た目以上の距離を置いて神殿を遠巻きにしているようだった。立ち入り禁止とも見える白砂の地帯に遮るもののない陽射しは、目を開けてはいられない位の眩しさと強さがあった。リュックからサングラスと帽子を取り出すと更に歩を早め白い世界に飛び込んでいった。


第2節 白い人の住む星

 此処に見える全てが頭からすっぽりと白いフードをかぶり全身を包む白衣のガウンを纏っている。ギャザーの付いた裾は足を隠し地表を滑らかに滑っていく。人のような体形をしているが現代人よりは少し小柄のようだ。フードに見え隠れする透明感のある顔に無表情の大きな目と小さすぎる口は相馬の眼には異様に映った。食べることすら難しいと思える小さな口は会話をする事等到底考えられなかった。行き交う人達は明らかに文明の違う相馬に眼を止めようともせずすれ違っていく。気付かない振りなのか無視しているのか分からない。紛れて歩いていると連れ立って歩く人の中には仕草や体形に性の違いらしき特徴を見てとれる。人類であれば顔立ちも柔和でより丸みのある小柄な体格は女性が相場と相馬は考えている。互いに顔を向け合い意志の疎通を図っている風にも見えるが、相馬の耳には何ら響いてこない。声らしき抑揚が伝わって来ないのだ。ただ、微かではあったがトーンの違う鳴き声とも金属音ともつかぬ会話らしい波動が頭の芯に交互に入り込んでくる。耳障りほどではなかったが意識を逸らせば解放される妙な間合いがあった。前を歩く二人に付いて行く。途切れ途切れの波動は互いに訴え掛け或いは意志の交換をしているようにも思えた。歩いている間にも人混みは益々広がり膨れ上がって行く。それも、手足を隠した白装束の人達が日差しの強い時間帯に意味もなく街中を歩き回っている。そんな印象だった。小さな子供を連れた夫婦も見受けられる。湧き出した人の中には立ち竦みじっと考え事をしている風もあった。相馬の感じている時間の感覚が瞬時にも思われたのは、この白い世界は異常な時速を持っていると錯覚させたようだった。一時間とも十数分とも思えた。徘徊していた人達は次々に街路に立ち並ぶお椀を伏せたような大小の白い半球に吸い込まれていく。早送りに潮が引いていくようだった。見回すと街路に佇むサングラスの相馬ただ一人が取り残されている。どのドームも人を飲み込んでいた黒い入り口は既に閉じている。窓もなく、入り口の合わせ目さえ見つけられないまま半球の周りをぐるぐると廻っている愚かしさ。どうしたらいいのか一向に思いつかない。相手にされない疎外感や閉塞感とでも言うべき空間に置き去りにされた気分に陥っている。未来世界が物珍しげに受け入れてくれるだろう安易な感情が無かった訳ではないが、それにしても冷ややかに過ぎる。それとも異文化の遅れた生命体とは関わりを持つことすら許されない掟でもあるのか。未来社会の基準は遥かに進化した思いもよらない法典を用意しているのか。進化した知的生命と共に居ることに何らかの不自然性が潜んでいるのではと思えてならなかった。時間は余るほどあった。街路の縁石に腰を据えるとリュックからシートを取り出す。近くには日差しを遮る街路樹もひさしを備えた住居もなく、眩しく反射する白いドームばかりが並んでいる。頭上に大きく広げ日除けを作り、変化を待つ様子は持久戦も辞さないようであった。長く暑い時間が過ぎていった。時折熱風を運んで通り過ぎる風の音が、唯一動きを表わすゴースト地帯と考えても可笑しくはなかった。目の前に何の変化も動きもなく過ぎていく。ただ、陽は大分傾いて急速に気温を下げ始めている。一箇所に同じ姿勢でこんなにも長く居たことはなかった。此処にいなければならない理由はなかったが、相馬にとってこの場所にいることが楽しく思えてならなかった。陰るに従い肌寒さは身を震わせるまでに感じられて重い腰を上げた。リュックを背負い元来た道を辿り始めていた。
 次の日からは陽が昇る前に街路やドームの見物を始めていた。リュックには水や軽食、日傘や双眼鏡等が詰め込まれている。毎日同じ時刻に出発し日が落ちるまで歩き回った。一週間が過ぎる頃、ある時刻になると白装束の人達が街路に溢れ出ては再びドームに消えていく習性を見出していた。見分け難い人達を注意深く観察していると出入りする場所が違っていることもあったし、時には一人も姿を現さない日もあった。そんな日は朝から雲がたなびき昼前にはとうとう泣き出す、相馬にも鬱陶しい一日だったのである。更には偶発的であったが嬉しい経験もあった。或る日の陽も高く上った何時もと同じ時刻に、現れた人達の会話が聞き取れるようになったと思われたのだ。それは余りにも必死で痛い話だった。一日中歩き回り疲れ果て、しゃがみ込んだ弾みに仰向けに転倒して、街路の縁石に嫌というほど頭や首筋を打ったのだ。暫らくの間気を失い灼熱の陽射しに曝されていたようだった。息を吹き返したのは白い人達が溢れ出してからだった。頭から鮮血を流し火傷による水泡と真っ赤な顔は原型を留めず意識も朦朧としていた最中、白い人達が相馬の傍を通り過ぎた一瞬、その人達の会話が聞こえた気がしたのだ。鮮明にはっきりと。それきり気を失い、眼が覚めたのは日も落ちる夕暮時であった。やっとの思いで船に辿り着き、ベッドに倒れ込むとこん睡状態に陥りはしたが、幸運にも九死に一生の命拾いをした一件があったのだ。それからは聞きたい人たちへ意識を向けるだけでよかった。それだけで見知らぬ社会の一端を知る足がかりが得られたのである。炎天下の一際暑い日、漸く踏み込む決心がついたのであった。
既に見慣れた白い人達の賑わいは各々のドームの入り口が開き始めると同時に冷めていく。吸い込まれるように列を成して消えていく。リュックに食料を詰め満を持して待っていた相馬は、入り口が閉まる寸前暗い闇のスクリーンを潜り抜けるように走り込んでいた。

 「彼は余程の強運の持ち主なのかしら。それとも誰かが手を貸したのかしら」
天空に輪を作って立ち並び下界を見下ろす中の一人は隣に顔を向け意味ありげに微笑んでいる。
「私は決して介入はしないし、手を差し延べることもない。切り開き生きていく者が決めればいいことだ」
彫りの深い威厳を見せていた顔は急に目元を緩ませたが、やんわりといなす様に答えている。
「彼は飛び越え過ぎたように思うわ。見つけられたとして元の世界に戻れるのかしら」
  眼下を不安そうに覗いている。
「退屈凌ぎの時は始まったばかりだ。だが、間もなく分かるだろう」
気遣う顔へ柔らかい眼を向けていた。

明るい光の中に浮いているような不安定な気持ちを抱いて見ている。振り返った空間には黒く細長い出入り口もあったが、徐々に薄れ消えていく。目を戻すと眼前には青みがかった高層建築物の房が浮び、それはまるで支柱からぶら下がる数個の蜂の巣に似てずんぐりとした顔を下に向けていた。足元の遥か地表には円柱を半割にして横長に伏せた工場らしき建築物が幾つも並んでいる。隣には研究所と思える矩形をした立体構造施設郡がひしめき、それらから距離を置いて丸い講堂が小高い丘陵地に聳えている。構造物の間を埋める花と緑は交差して奇妙な文字を刻み、眼を移した遠方には霞んで膨らんだ山らしき峰々が見えている。外では一巡りだったドームの中は大きな星が一個入っている。そう思わざるを得なかった。蜂の巣は彼方此方に色違いで支柱に吊り下げられ、五、六個の花を付けて等間隔に並んだ木が生えているといった感じだった。その街並みは、重力に捕らわれることのない軽さとカラフルな平穏さを見せている。眼を凝らして見ると静かに動いていた。白い人達の姿が無いように思われたのは景色に混じりあっていたせいもあった。空中に浮揚し引き寄せられている。進む直線上には蜂の巣城や建造物があるようだった。注意深く丹念に眺めていくと白い人はそれほど多くは無かったが、施設物の周りに動いている。柔らかい日差しの中でゆったりとした長閑な時が過ぎていく。見慣れぬ異次元の世界はそれほど異様に思えなかった。眺めていたが、自分の周りを薄い膜が取り囲んでいることに気付いたのは大分経ってからだった。数ミクロンのシャボン玉のように光を分け虹色に輝く瞬間もあったし、手を差し出しても突き抜けて触れられない膜であった。空中に浮んでいる体を包む膜が何時作られたのか判らなかった。何かしらバリアーのように感じられたのは長閑な風景に飲み込まれたのかも知れなかった。
 ゆったり流れる静けさは、頭の芯に響いてきた騒々しい気迫と共に破られていた。見下ろすと数人の白い人達が矩形の建物から飛び出してくるところであった。白いガウンを捲りあげ、手には先端が筒状になった砲身の長い銃らしい武器を構えている。追うその先には相馬と同じか少し先の時代と思える服装をした男が逃げていく。白い人も男も空を地表をカーブを描きながら自在に動き回る様子はさながら孫悟空のようでもあった。逃げる男の周りには相馬と同じ薄い透明な膜が張り付き時折陽光を反射している。差は縮まり至近距離になると追う者達は銃を構え警告を発していた。その金属的な響きが相馬の頭の中にも入ってきていた。
「虚(うつろ)に告げる。ここはお前達の来るところではない。直ぐに立ち去れ」
「神殿が赤い月明かりを受ける日を静かに待て。二度と此処に来てはならない」
警告は追われる男を静止させ空中に向き直らせていた。速い動きに翻弄されて見えなかったものが見えている。姿も形相も相馬を緊張させるに十分だった。男からは濁って刺々しい感情が噴き出し、そこに渦巻いている息苦しさが押し寄せてくる。圧迫感は逃れようも無い恐怖心を煽りささくれ立った大波が打ち寄せている。意味は良く分からなかったが男の持っている憎しみや悲しみが伝わって来る様であった。その時白い人達の手から一斉に銃が発射されていた。白く輝く火球は透明な膜もろとも男を飲み込んで消失していった。白い人達は互いに何やら確認しているようであったが、頭上の相馬に気付く風も無く何事も無かったかのように空を滑り矩形の建物へ引き返していったのである。短い時間ではあったが会話が聞き取れるようになってからの白い社会の一端は理解したつもりだった。ドームの外へ出て歩き回る理由が、散歩などではなく光エネルギーを吸収する生命維持の為だという事も、眼に見えない飛行体が防衛技術の粋を集めた軍事機密兵器である事も分かりかけてきたが、目の当たりにした事実は相馬に少なからず衝撃を与えた。空域にいることに不安を覚え地表に降りなければと思った途端、体が傾き始め斜めに急降下している。建物を避け瑞々しい花が弾ける苑に体を倒す。花園には取り取りの鮮やかな色が溢れ見たことも無い形が並んでいるが、香りも感触もまるで無い。見えているそこに実体が無いに等しかった。触れようとする手のひらは花に触れることさえ出来ない。否、よく見ると花は実態としてあるにも拘らず相馬の手は花をすり抜けていく。眼は触れることの出来ない物なんてあるんだろうかと疑っている。若しかすると自身が先程の男のように虚になったのではないかと。初めて無謀な体験を試みたと後悔し始めていた。彼らと同様に相馬も辛うじて空を飛びまわれはするが、白い人達には物質に触れ操作することも出来るし、更には透明な薄い膜など見当たらない。いわば実数と虚数ほどの違いが感じられた。しかし、この違いこそが捜し求める糸口と考えを巡らせるようになったのは暫らく経ってからだった。
埋もれていた花園から顔を上げると滑るように歩き出している。跳んでもみた。小山なら飛び越せるほどに高く舞い上がっていく。空中を滑空もしてみたがこんな清々しい気分を味わったことは無かった。花園が囲む青く透き通った池にも飛び込んでみたが苦しくも無い。泳ぐ魚になった心地さえする。かまぼこ型をした構造物の周りにも滑っていった。途中で白い人にも出会ったがドームの外と同じように気付かないのか或いは無視されている。周囲には観賞用なのか実を付けた果樹もあった。構造物は柔らか味のある艶やかな光沢を横たえている。ただ、近づけなかった。どの施設も建築物も外表面には強い斥力が働いている。出入り口だけが通れる唯一の開口部と思えた。会話の一部ではあったが、ここに暮らす人達に衣食住は無関係らしかった。着ている均一の白いガウンはエネルギー補給のための変換装置を兼ね、居住はあの蜂の巣である。必需品の生産工場も全て労働力を要しないシステムということだった。ただ、暮らすためにバランスの取れた最小限の生産と消費を優先している反面、外敵への対抗手段や防衛装備は他の惑星を壊滅させられるくらいの軍備を誇っている。上空に寝そべって日の光を受け流れる雲を見ていると変わらない自然がここにもあるようだった。子供時分に感じた、溶け込んでいく一体感とでも言うべき充足した気分が沸いてくる。緊張の解かれた体を投げ出しリュックを枕に浮いている。先程の衝撃など何処吹く風の如く夕日の傾く空を見つめていた。
 白い人達が何故相馬に気付かないのか分からないまま三日が過ぎている。この世界の一日の過し方も何となく判りかけてきた今、一緒に日差しの照りつける外の世界へ行こうと思えば何時でも行けたし、出入り口の開くタイミングも熟知していたが、潤いのある大地を見つけ根を下ろした樹の如く動く様子は見られなかった。施設や建築物の中に入る機会も無く今日も気ままに空を漂う。涅槃姿よろしく頬杖を付いて蜂の巣城の入り口を眺めている。白い人が出入りする度に明滅する人工色は、見たことも無い光でもあった。今、六角形の入り口の一つが明滅している。出てきたのは母親と子供であった。拗ねている幼子を連れ出し散策にでも行こうとしているようであった。親子は近くの緑地に降り立ったが子供の機嫌は変わらない。仕方なく母親は子供の手を引き舞い上がっていく。何処へ行くのか興味をそそられ相馬も後について行く。意識を向けるだけで自在の飛翔は夢心地といえた。花園や緑地帯を縫うように飛び回るが子供は一向に母親の意を解そうとはしない。飛び続けるうちに何時しか構築物も無い森の端に降りていた。随分遠くの見慣れない風景は子供を面白がらせている。相馬も初めて目にする此処は想像し難い未整備の一角であった。船の周りに生い茂る樹林に似ていると思われて、確かめようと子供の前を頬杖を付いたまま流していく。白いフードから覗いて見える顔立ちは連れ歩く母親に似て愛らしく映った。相馬の世紀ならさしずめ美人で可愛い子なんだろうと眺めている。何にでも興味を示す特有の仕草は未来の子供とて同じであった。落ち着きの無い素振りで目に付く物の説明を求めている。親子の会話は相馬にも届いていたが、子供と眼が合った途端全身を駆け巡るあの緊張が蘇っていた。宙に浮いている相馬を指差して「虚がいる。」と叫んだからだ。母親は指差す先を黒く大きな瞳で凝視していたが見えないようだった。相馬は咄嗟に起き上がり身構えると少しずつ後戻りをしている。何時あの白い連中が現れ火砲を振り回さないとも限らない。母親も辺りを警戒しながら子供を引き寄せ舞い上がろうとしている。親子の顔が霞むほどに退いた頃、樹林の中ほどで陽光が薄い膜に反射し光っている。一つだけではなかった。数個が浮かび上がると遠巻きに親子へ近付いていく。母親は異変を察し子供を抱きかかえていたが、勢いよく舞い上がると加速をつけ引き返していった。その後をシャボン玉のような数個の気球が加速度を増し追いかけ始めた。浮かんでいる相馬の直ぐ傍を通り過ぎた気球の中から重苦しい圧迫感が伝わってくる。同時に「お前は何故我々と共に行動しないのだ。」と詰問を受けた気がした。彼らにも子供と同じように相馬の存在が分かるらしかった。それがどういうことなのか理解には及ばなかったが、追われる親子が気がかりでならなかった。気球中に見えた薄れた輪郭と透明感のある姿は虚数のようにも思えたが、実数を凌ぐ怖さを持っているのではと感じたのである。渾身の意識を集中し空に溶けていった白い親子を追尾していく。自分でも驚くほどのスピードで移動している。それでも追いつくにはかなりの時間が掛かった。遠くに見えていた追う者と追われる者が急に視界に現れてくる。親子は気球に取り囲まれ黒い重圧を受けているといった面持ちだった。相馬の頭の芯にはっきりとはしなかったが響いてきている。気球の中の顔は「何故俺達を追い払うのか。」と言っている様だった。母親は幼い子供を後ろへ隠し、苦痛を受けながらも気丈に対抗している。「戻りなさい。」「自然に帰りなさい。」という風にも聞こえてくる。互いの感情は激しさを増し憎悪の波が相馬を錯乱させ、吐き気を伴うほど強く襲ってくる。多勢を相手に母親も耐え切れず今にも倒れそうにふらついて見えた。柔和な表情は血の気が失せ蒼白に歪んでいる。何故飛び出していったのか自分でも分からなかった。出て行ったところで解決出来る手段や方策等ある筈もなく無鉄砲に飛び出している。親子を背にして気球と向かい合っていた。「何をするんだ。」と大声を上げた気もしたし、「お前らは一体何なんだ。」と叫んだようにも思えたが頭痛を抱えた言葉は明瞭な意思表示になってはいなかった。相馬にしては珍しく、訳の分からない激高した支離滅裂な感情だけが撒き散らされている。彼らは仲間だと思い込んでいたのかも知れなかった。頭痛が途切れ重苦しさが薄れてくると、低周波に似て威嚇する響きが伝わってくる。
「お前こそ何なんだ。何しに遣って来たんだ」
般若の面相を凌ぐ凄みと再び始まった頭痛はこれまでにない苦渋の極みだった。
「邪魔をすれば誰だって容赦はしない」
執拗に波動が襲ってくる。意識を逸らすことさえ出来ない呪縛に陥っていた。相馬も親子も朦朧として深い闇に落ちそうに揺らいでいる。意識を失いかけたとき、乳白色の空から白砂の粒が近付いていた。火砲を手にした白い一団が親子をガードする頃には、持ち堪えられず気を失い地表に落下していたのだった。  空腹に眼が覚めたのは一晩過ぎて陽が高く昇った頃であった。未だ頭の芯には楔が刺さってでもいる。体を揺すり異常を確かめている風だ。陽に透ける気球の膜は色を失い厚みをなくしつつあった。
「親子はどうなったんだろう。白い連中が来たように思ったんだが」
空を見上げ眩しそうに目を瞬かせた。思い出したようにリュックを開き食料を漁ったが何一つ残ってはいない。飲み物さえ空になっている。この世界では物に触れられないばかりか相馬の食料さえ調達は難しい。
『いったん戻って食料の補給でもするか』
『久し振りの入浴も良いもんさ。もう直ぐ出入り口が開く頃だ』
独り言はさっぱりしている。中心地街に向け舞い上がっていった。
 強い日差しを遮る樹林の下に船はひっそりと帰りを待ち続けていた。中へ入ると爽やかな冷気が滑らかに肌を包み込んでくる。起動しているディスプレイ上にはコンダクター氏のメッセージらしき伝言が書かれてあった。それ以外は船内に変わったことは見受けられない。相馬は一目散に浴室へ飛び込み空腹も忘れ数日の垢を落とす。湯船に浸かり脳裏の片隅に浮かんでくる白い人達の日常を考えている。どうしても納得できない不可解さに突き当たる。白い人達の社会は理想的かも知れないが、理解し難い或いは欠けている何かがあると思われて仕方が無かった。虚といわれる連中との関係も分からなかった。否、考え過ぎか、関連性を持たせることが良いのかさえ相馬にははっきりしなかったのだった。遅い昼食を済ませると机上に向かう。ディスプレイにはコンダクター氏の苛立ちが踊っている。伝言には安否を知らせる定時連絡が無いとか、時空域位置検索器を持ち歩いていないのは危険だとか散々な言い様が書かれてあった。以後安全の保証は出来ないとまで脅している。確かに危険は潜んでいるがそれを承知で送り込んだわけである。参加無料と謳いながらリサーチ研修報告の提出を強制する何らかの理由があるように思える。未来を先取りする因子を持ち帰らないで新たな発見や技術開発等出来る筈は無いのだ。リサーチ報告等駄文に過ぎなくなる。にも関わらず念を押したのは取締りが厳しい航空局の手前を取り繕っているだけに過ぎない。因子を持ち帰る危険性を十分知った上での強運な探求者を選んだ公算が強いと。考えていると定時連絡をする気にはなれなかった。机を離れ重い体をベッドに横たえると間もなく安らかな寝息を立てている。最も安全な深層の淵へ。


第3節 リサーチトラベル社の内情

 青い船体を発着場とする広大な敷地にリサーチトラベルの本社が有る訳でもなかったが、濃紺の制服に身を包んで威圧する警察官の間を私服に腕章を着けた係官五百名がドームに出入りを繰り返している。箱詰めにされた資料は列を成して待ち受ける重車両のコンテナに運び込まれ消えて行く。並んだ五つの野球場程もある巨大なドームの彼方此方で航空局の査察が執行されていた。
「ここに無ければ何処に在ると言うんだ」
「本社にも総合技術研究所にも無かったんだ。徹底して捜索するんだ」
小型の携帯無線機を握る統括主幹の叱声がオペレーター室を見下ろすドーム最上階に響いている。査察に協力を要請され命ぜられるままに行動を共にしている複数の管理職社員にとって何が起こっているのかさえ分からなかった。
「この部屋の主は誰なんだね」
開かずの間といわれた最上階にある執務室の椅子に掛けて社員を睨む。床はモザイク画の大理石に彩られ、装飾された貴金属の見上げる柱の間には古の美が飾られている。法王の居所に続く大聖堂の中にルーブルがあるといった様は主幹に二の句を詰まらせていた。
「私共の会長が年に二、三度来られた時に使用されるお部屋で御座います。それ以外はお開けすることはありません」
社員は消え入りそうな小声で応えている。主幹はあきれた表情で見入っていたが、思い出したように質問を繰り出す。
「インターナショナルマテリアルと言う会社を知っていると思うが、此処と関連があるんだろう」「私の管轄ではないが聞きたいことがあるんだ」
主幹はそれまでとは打って変わり和らいだ表情を見せた。
「どのようなことをお知りになりたいのでしょうか」
答える社員の一人は眉間に皺を寄せている。
「その会社は何を作っているのかね」
社員を向いている。
「多分、全てをお調べになりご存知のことと思いますが、私の知る限りを申し上げます」「IM社は私共の資本百%出資の子会社です」「製造出荷製品はセンサー類やバイオ製品が主流で国へも納入させて頂いております」「国内七十箇所に事業展開し海外へも拠点を設け皆様のお役に立っていると聞いております」「最先端技術は世界のトップクラスです」
主幹は一々頷いていたが更に質問を浴びせていた。
「武器も製造しているんだろう。管轄違いで私には良く分からないんだが」 「トップクラスどころか他国とは比較にならない位の技術を持っていると聞いたがそれは本当かね」
「勿論国の許可を得て武器を製造し防衛省へ納入させて頂いておりますが、内容について詳しい話は存じ上げません。主幹が何をお聞きになりたいのか私には分かりません」
社員の口は閉じかかっていた。
「皆さんは管理職である以上、国へ届けてある〈時空旅行規程〉を十分承知のことと思う。違反するような事例は無いと思うが」
主幹は真顔に戻っていた。
「率直に言うが未来や過去の因子、詰まり技術や情報或いは実物を持ち帰りIM社へ流しているようなことはないのかと聞いているんだ」「そんなことをすればこの社会がどうなるか誰でも分かる」「混乱と無秩序が人類を破滅させるのは眼に見えているからな」「IM社の高度技術は余りにも現代とかけ離れているとは思わんのかね」
管理職者を睨む眼には凄みさえ伝わってくる。
「我々が何を見つけに調査に入ったと思っているんだね。単なる業務の定期検査でもなければ工作物の立ち入り調査でもないんだよ。我々は気付くのが遅すぎた。政治に介入してくる途方も無い献金が族議員を盲目にさせていた。このままでは一国家が一企業に牛耳られる」
苛立ちが垣間見えるようだった。
「今のところ証拠は見つかっていない。しかし、どんなに隠し通そうが必ず探し出す。未来から先取りする技術で幸せには成れない位分かっている筈だ」 「どうやって因子を持ち帰り製造しているのか話してはくれまいか」
居並ぶ管理職者に視線を送った。だが、誰一人として口を開こうとはしなかった。厳しい罰則規定でもあるのか或いはマインドコントロールされているのか押し黙ったままだった。
「探し物はまだあるんだ。否、物じゃない。人だ」「癒着で航空省の前大臣が更迭され代わりに赴任してきた大臣に関わることだ」「実は大臣の甥が消息を断って一年が過ぎようとしている。彼は未だ院生なんだが『気の計測理論』では注目を浴びている時の人だ。研究熱心で真面目な学生でもあった」「ところが旅行に出かけるといったきり帰ってこない」「大臣はとても心配しておられるんだ」「この中で誰か彼の消息を知っている者はいないかね」
主幹の声は落ち着いていた。間が空いて時が過ぎていくが、問いかけに答える声は無かった。並々ならぬ大きな意思が働いていると感じられた性もあったからだ。
「我々は探し出し、見つけ出すまで決して諦めることは無い」
椅子から立ち上がると大理石の床に靴音を響かせていた。


第4節 帰還

 樹林の根に射していた数本の細い光はもう消えかかっていた。胸苦しさや締め付けられる束縛を感じただけではなかった。押さえ込まれ身動きの取れない硬直した時間が過ぎていく。目を開けると照明の瞬く船の中を移動している白いモノ見えている。透明なガラス窓を透過しては戻ってくる浮遊体に明瞭な形は無かった。起きようとする意識は張り付けにあった体を動かせないでいる。眼は見開き必死にもがいて方策を探している。樹林に騒いでいた白い浮遊体が船内に押し寄せてくると圧迫感は更に増し震えが体を襲う。意識さえ薄れ遠のき始めていった。
「孝雄、何時までそこに居る気なんだい。早くお前の好きな所へ帰りなさい」 「お前を待っている人がいるんだよ」
渋くて力強い声が落ちていく意識を追いかけてくる。悪さを咎められ叱られているときでも孝雄を庇ってくれたあの懐かしい声だった。押さえられていた抑止力がふわっと消えていく。眼を開けると隅々にまで広がった明るい船内に白い浮遊体は見当たらなかった。体も自由が利いている。半身の姿勢でガラス越しに明かりの届く樹林を見ていたが脳に強電流が走りまわった。
「ドームの内側世界にあった樹林と同じだ。樹林は内と外で繋がっている」「兎に角ここは引き払い別の場所へ移動だ」
相馬は思わず声を上げていた。着替えを急ぐと緊張した面持ちで操縦アームを立ち上げ、周りを囲んで生い茂る木々の上部にサーチライトを向け発進し始めた。船と擦れ合いうめく様な声、枝が折れ痛がる悲鳴が聞こえた気がした。急加速で樹林を突き抜けて行く。浮かび上がると砂丘の彼方へ陽が落ちていくところであった。陽は足を速め沈んでいく。長く伸びた白亜の石畳に映えていた茜色も少しずつ色を失い、神殿に忍び寄って丸く遠巻きに囲んでいた樹林の影も次第に薄れ夕闇に溶けていく。故郷の山河に見えた夕日が重なって懐かしく思え樹林の上空から離れようとする切迫した意識が薄れている。時が加速して進んでいく錯覚があった。見上げると先程までの水彩の月は跡形も無く、今では赤黒く滾る大きな顔を向けている。微かに感じていた石を挽く重い響きは大気を揺るがす低周波音に変わり、それは神殿を微妙に創り変えているように思えた。赤い満月は闇を照らす月明かりに足りなかったが、低周波音を伴い立ち昇った青白い光は、徐々に神殿の姿を変え闇に浮き上がらせている。S字に繋がる円筒形は既に崩れ楕円形をしたコロッセオが姿を見せ始めていた。外壁が放つ青白い光は意識を持つ全てに働きかけ逃れられない束縛の投網を投じているようだった。内側のすり鉢の底には月よりも赤いソリューションが揺らめき跳ねている。チャイルドシップから見下ろす相馬に、白い人達の言っていた満月の日を思い起こさせた。虚が神殿に集まる満月の夜が来ていることを。それは相馬が追い求めてきたその日に違いないと。
満月が闇の中に一際赤黒さを増して見える頃、地を這う低周波音は途絶え形を変えた神殿だけが光を放ち、遠巻きにして囲う樹林の肉厚の葉にも淡い光を投げかけ静かに時が過ぎていった。
続いていた静寂が打ち破られたのは眼下の暗闇からだった。樹林から湧いてくるおびただしい白い浮遊体に合わせ読経のような唸りが頭の芯に入ってくる。数え切れないほどの群衆の夫々が語りかけ訴えかけて唸る。歓喜の歌声も悲しみの嘆声も憤りの怒声も入り混じって唸っている。尾を揺らして上空に溢れ出した白い浮遊体は青白い神殿の上に漂っていく。激しい動きも穏やかな流れもあった。白い意識の洪水はその上空に集まり始め厚みを増し樹林に近付くほどに幅を広げていく。湧き上がり充満する意識に合わせ神殿の青白い光は少しずつ明かりを強め輝いている。眩しい位に照射し始めた光は浮遊体や樹林を、更にその先には浮かんで神殿を向いた白い人達を鮮明に映し出していた。彼らの胸に合わせられた手には三尺も有りそうな赤い笏が握られ、神殿の上空に現れた浮遊体を取り囲んでいるといった様相だった。青白い光が輝度を高めて白色光に変わると長い尾を縮めて丸くなった気球が浮かんでいた。それは相馬がドームの中で見た気球そのものだった。薄い皮膜の透明な球体中に見えた顔つきも服装も様々であった。柔和に優しさを含んで笑みを浮かべている者もあれば阿修羅の如き形相で睨む者もいる。光を浴びて様子は対照的に思えた。動きを止めて浴びている光に同調するかのように球体の中で姿を消していく虚もあれば、一層激しさを増して飛びまわる虚もあった。透明に変わった球体は白く輝きながら急速に萎んでいくと夜空に駆け上っていく。次々に光跡を残し飛び立っていく。果てしない天空へ舞い上がっていく光のシャワーを見ているようだった。夜空を見上げている相馬には、賑やかに爽やかに清々しさを耳元に届けて逝ったように思われた。どれほどの長い時間が経ったのか分からなかった。赤い月が真上に差し掛かって光のシャワーが途切れる頃、樹林や神殿の周りを勢いよく飛び廻る数多くの球体が未だあることに気付いたのだ。もがいて必死に飛び回りぶつかっている。抑圧された荷重を振りほどこうと突き進み押し返されている。そういった風に見えている。跳ね返す先にはフードに身を包んだ白い人達がいた。勢いよく球体が突進するたびに手にした笏は炎の如く赤々と燃え上がり強大な斥力を放っている。笏は神殿のすり鉢の底に揺らめいていた赤いソリューションさえ煮え立たせ跳ね上げ、それは白い人達によって絞られてくる輪を待ち構えているようだった。虚が発する力は笏のそれには及ばなかったのか次第に動きを封じられ神殿に近付いている。勢いよく動き回る虚の一つが神殿の真上を通り過ぎようとしたとき、跳ね上がって煮え滾る赤いソリューションに触れた途端、球体は金縛りにでもあったように静止させられていた。ソリューションは球体ばかりか虚をも赤く染め始めている。蒼白に血走った目付きが和らぎ赤みを帯びて見えたように思えた。同時に虚は球体の中に姿を消して見えなくなり一筋の光が暗闇に上っていったのだった。白いフードの集団は笏を手に輪を絞っていく。暴れまわる虚を容赦なくソリューションの中へ押し込めていった。相馬は呆然と見ているしかなかった。捜し求めていた実の世界なのか或いはディメンションの違う虚構の空間に過ぎないのか戸惑っていた。嫌がる子供に無理を強制している風にしか見えなくも無かったからだ。訳が分からないといった表情を見せている。周りに注意を向けられないでいる時間が長かったのかも知れなかった。目の前を遮る球体に焦点が合って、チャイルドシップの透明なアモルファス耐圧ガラスに進入してくる強靭な意志に対峙して初めて言われようの無い危険を感じたのだった。笏の包囲網から逃れてきたのか見境も無くはけ口を求めているように思える。重圧による息苦しさ、奈落の底へ引きずり込まれる無力感が襲ってくる。虚が船の周りに増えてくると船室に備えてある家具やテレポート装置が微動し始める。操縦桿を握る力さえ失われ朦朧とした意識の中でクレーン技師の話を思い出していた。船は強大な外力を受け歪み軋んでいたが、弾かれるように弧を描いて落下していった。  木々を焼き尽くし石をも焦がす灼熱の陽が昇っている。黒いスクリーンが開くと白いガウンに身を包んだ人の放列が続く。街路には人の波が動きはじめていた。誰一人倒れている相馬に気付く風も無い。白い人々はエネルギーを十分吸収するとドームへ引き返していく。時が過ぎて人通りが疎らになった道にあの親子が歩いている。子供は相変わらず駄々をこね母親を困らせていたが、街路の端に倒れている相馬を目ざとく見つけると、
「この前の虚が倒れている」
母親に向かって叫んだのだった。母親は指差す先を懸命に探しているが視認は出来ないようだった。
子供を残しドームへ引き返していく。戻ったときには数人の男達が同伴していた。手には探査用らしき照明灯と気球が用意されている。男達は子供が指差す先にライトを当て探っていたが、間もなく相馬を見つけると青白いベールを被せ気球に入れドームの中へ消えていった。
 研究所の一室には母親や子供、研究員達が気球に波長の長い放射線を当てそれをモニターする画面に見入っている。画像は身動きもせず青白い顔を下に向けた相馬を映し出していた。
「この虚は死んじゃったの」
母親の顔を覗く子供は少し寂しそうな表情をしている。
「虚じゃないのよ。大昔の私達の祖先。時間を移動して来た旅行者よ」「旧式の壊れたタイムマシンが落ちていたんだって」
母親は子供を引き寄せると、物珍しそうに画像を眺める研究員に尋ねていた。
「この人は私達を助けようとしたのよ。元に戻せないのかしら」
「出来れば昔へ送ってあげたいんだけど」
研究員の一人は振り返ると自信たっぷりに頷いて見せたのだった。


第5章 大滝を見に

 目を覚ますと開け放たれた庭先に辛夷(こぶし)の花が陽に輝いている。つつじや椿の生垣が敷地のぐるりを取り巻いて見覚えのある景色だった。懐かしい匂いを運んでくる風は優しく吹いている。布団から這い出して縁側へ腰を下ろす。小高い山のブナやクヌギの新緑を眺めていると、奥から母の声が聞こえてきた。
「孝雄、よく眠れたかい。突然帰ってくるから驚いたじゃないか。来るときは連絡くらいするもんだよ」
「夕べ遅く帰ってくるなり倒れるようにして眠っちまうから心配してたんだよ」
不意の帰郷に驚きと嬉しさを混在させているようだった。
「居間に食事が用意してあるから着替えてきなさい」「済んだら大滝へ行ってごらん。今日は特に天気が良いから」
掃除を始めた母の横顔には妙に羨ましそうな笑みがこぼれている。
「そう言えば、この間航空局というところから変な連絡があったけどどういうことなんだろうね」
思い出したように手を止め、息子を見る眼は怪訝そうだ。
「リサーチトラベルという会社が、今までに何人もの行方不明者を出していたらしく、それが発覚して航空局が調査に入ったんだって」「孝雄さんはご健在ですか、なんて聞いていたけど妙な話さ」
母は息子の健在ぶりにそれ以上を追及しようとはしなかったし、孝雄もひたすら知らぬ半兵衛を決め込んでいる。もし母に仔細など話そうものなら腰を抜かしかねない。ただ、孝雄にも戻ってこられた正確な理由は分からなかったのである。白い母親と子供が手を振っていた記憶しか思い出せなかったのだ。
「曾婆ちゃんが亡くなって何年経つかな」
話を逸らそうとしている。
「曾婆ちゃんが帰って来いって言ったんだ」
背を丸め座って編み物をしていた縁側を見つめている。
「曾婆ちゃんっ子だったからな、孝雄は」
「早く食事を取って出かけなさい」
尻の重い息子を急かせていた。
 分校は廃校になって久しく、屋根や校庭に雑草が生い茂り、教室に出入りする引き戸のガラスも入り口に散らばって一層寂しさを募っていた。坂道を下っていくと風に乗って水音が聞こえてくる。見えてきた大滝は何時になく水量を増し瀑布を広げている。対岸に立ってみる絶壁からの景観が思い起こされ足取りも軽く斜面を登り始めていた。登り詰める頃、子供時分には感じなれなかった急斜面は、何度も足をもつれさせ滑り落とそうとしている。枝に取り付き岩にしがみ付いて絶壁を目指した。記憶にある頂上は二畳ほどの平らな岩がこぢんまりと敷かれ、頂きに腰を下ろし足を宙に泳がせて眺める爽快感は、此処にしかないと決め込んでいる。岩に手が掛かり、頂上から対岸の大滝が見える筈と、顔を出した途端大きな瞳が目の前に現れていた。瞳の奥には懐かしさと聞き覚えのある特有の響きが重なっている。
「孝雄君なの」
それきり声は無く動きを封じられ止まっているようだった。長い髪が風に靡いて手を差し出す頃、孝雄も安らいだ眼が答えていた。揃って大滝を前に瀑布を見ている。
「未だ描いているのかい」 久しい時間を気遣う風だった。
「貧乏画家は相変わらずよ。それほど売れないけどね。でもたまには買ってくれる人もいるのよ」
自信めいた口調は少しも変わっていないように思えた。
時は跳ねるように流れ一面茜色に染まっている。話しも終わろうとする頃、孝雄の口から漏れていた。
「見つけに行ったんだけど良く分からなかった」「菊原さんに話してあげようと思って行って見たんだけれど」
「何を見つけに行ったの」
嬉しそうに訊ねている。
「菊原さんがずっと探しているものさ」「だから俺、探しに行ったんだ」
「俺も知りたかったし」「でも白い番人と神殿がそうだとは思えないんだが」
話している孝雄を遮ると、
「私のテーマを簡単に探し出してもらっては困るよ」「ますます貧乏になるもの」
眼を大きく見開き口を尖らせ愛嬌たっぷりに言ってから、藍は大声で笑ったのだった。

時間潰しの宴がお開きになり、下界を見下ろしていた天空の輪が解れていく。
「彼は見つけたのかしら」
女神は呟いている。やや間があって、眼に妖しい光を浮かべると耳元でそっと囁いたのだ。
「ゼウス様そ知らぬ顔で私のお尻に触れるのは止めてくださらない」と。

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