「裁くのは誰」
「風呂に入る時にはシャッターを閉めるように言ってありました」 「しかしながらこれまでの妻の言い分は、まるであたかも当然のごとく私がそのことを軽視し家長としての威厳を正さず、夫たる務めを果たしていないと言い張るのは不当とも思えるのです」 「問題は、板塀はあっても浴室の透明なガラスでは外から覗き見ることなど容易く、むしろ覗きを容認していることになります」 「同様の話ならいくらでも有ります」 「例えて言うなら、道路に財布を放置して取らないようお願いするも同然です」「無くなったことに対してわが身を顧みもせず他を非難するようなものです」 「もっともこのような社会秩序の乱れは国の司法、立法、行政に少なからず怠慢があったということではないのですか」 徐に、然も苦々しく口を開いて裁判官は言った。 「このような他愛も無い訴訟を起こして何が面白いというのだ。何を根拠に当裁判所を騒がせるのかね」 「決して騒がせてはおりません。些細なことかもしれませんが、私は誰もが納得し公平・平等な判決を望んでいるのです」 「最近、被害者の会が発足し同じ痛みを有するもの同士の連絡会が出来、司法、立法、行政への不信感が高まってきているように思われます。即ち、裁定に対し反旗を翻し不条理を告発し、正当で平等な社会を作ろうとしているその現われではないのですか」 「法とは一体何なのですか。日常生活上の最低のボーダーラインなのか。それとも生死を分ける境界線なのか」 「静かにしなさい。当法廷での審理に無関係な話は慎むように」 「私は無関係とは考えておりません。秩序ある社会を維持する上でもマクロな背景を重視し、大きな視野に基づいた裁定を望むからです」 「現在、法とは我々にとってどのようなモノでどのように日常に関わり、身辺の危機に関与しているのか皆知りたがっております」 裁判官は速記官に向かい記録を中断するよう命じた上で、威を正し厳格な口調で言った。 「皆とは何人を指すのだ」 「皆とは不特定多数のことで何人とは断言できません。マスコミ報道からそう思うのです」 「マスコミが曖昧な表現をするとも思えないが、仮にそう言ったとした場合、マスコミは正義であって間違いは無いのかね」 「そうは言っておりません。しかし概ね順当と言っていいでしょう」 「どうにも根拠が希薄な上、説得力に欠ける。事件、事故を我先に報道しようとする余り、当事者や周囲の人達にプライバシーの侵害、騒音等の迷惑をかけ、視聴者から反感を買っていることは事実である。にも拘らずマスコミを擁護するとは公平さを欠いてはいないか」 「確かにそういう事実は認識しております。このような状況を放置することは好ましくないわけで、何らかの規制若しくは是正方策が必要かと思います」 「どの様な事なのか」 「例えば民間に諮問機関を設置し、被害者の声を集約した上で、事実があれば報道規制や一定期間の営業停止等の措置を取ることです」 「それは言論の自由を侵すことに他ならない。それこそ暴論と非難されるだろう」 「私が申し上げたいことの本質は、黒は黒、白は白であり灰色はないと申し上げているのです」 「ではこのような訴訟に拘らず、先ず、第一にそう言った事案の解決に向け奔走すべきではないか」 「論点を摩り替えず、私の疑問に答えるほうが先です。法とは一体何なのか明確にお答え願いたい」「法、令、規則、告示等全く無知な素人です」 「それほど難しい話ではない」 「対応する夫々に付いて該当する本を読みなさい。そうすれば貴方の疑問は直ちに解決する筈だ」 やや間を置いて平静を装いながら男は呟いた。『こいつは私をオチョクッテいるか、それとも法の番人としての威厳を誇示しようとしているのでは有るまいか。こうなれば徹底して論争してやる』と。 「法とは人間が社会生活を送るための規範であり、共通の認識がなければ意味がないことになる」「現在の法は認識性を軽視若しくは蔑ろにさえしている」「先日も殺人事件があったが、理解できないのは被疑者の権利ばかりが強調され、亡くなった者の人権には一言も触れられていないことが気に掛かる」「殺された人に人権が消失し、人権を奪った者に人権が残るとはどういうことなのか、私には全く理解しかねる」 「大きな組織が正当な事実を隠しているのではないかとさえ感じられる」 「まさか国が後ろ盾になっている等という事はないのでしょうね」 「何を馬鹿なことを言っているんだ。君は!」 「我々が死刑廃止論者の後押しをしているとでも言うのか」 「私にだって妻子はいる。被害者の心情は痛いほど分かっているつもりだ」 「では何故余りにも軽い刑罰で済ますのか理解に苦しむ」 「極刑や終身刑が妥当な事例がたくさん出ても良い筈なのに。これでは死に損ではないか」 「過去に再審によって判決が覆されたという事は、踏み込みが足りず調査、審理に過ちを繰り返してきたからに他ならないからだ」 「加害者の人権擁護を盾に極刑を言い渡すことに躊躇があるのか!それとも自己の履歴に汚点でも付くというのか!」 「いつも思うことだが、あの判決文の件(くだり)は何だ」 「計画性があってあの程度の量刑なら、ない場合は次の日にも出所出来ると勘違えさえする。冷静で客観的とは思えない」 「我々は、法の精神に則り常に事実を客観的に捉え判断を下してきている。少しでも更正の希望があれば社会に役立ち復帰できるよう、やり直しの機会を与える事が人道上も必要と考えている」 「これは間違っているかね」 「考え方を聞いているのではありません。極刑を言い渡さなかったために起こる弊害について言っているのです」 「犯罪者の大多数は法の精神を汲み取り更正しているかもしれません。然し、再犯者が起こした凶悪な事件は判断の甘さを如実に表しており、害を被った当事者や家族にとってやり切れない状況を生み出している」 「そういったことを踏まえ初犯であれ厳格に然も納得の行く適正な判決を求めているのです」 「現在の日本は法治国家というには余りにもお寒い台所事情ではないのか。犯罪者やその予備軍の恐怖におびえ暮らす人達が、頼るものもなく逃げ惑っている現状を知っているのか」 「確かに一部にはそのような事例もあるだろうが、そのために警察があり治安を維持している」 「プライバシー保護を前提としているため、なかなか立ち入れないことも事実だし、社会が複雑化し正当な評価に時間が掛かっている」 「個々が毅然とした対応を取ってさえいれば犯罪を防止できるし減らすことも可能だ」 「過去の日常生活では恐喝など茶飯事であったが、長足の改善があって現在の治安が保たれている。努力の成果ではないか」 「勿論そこには国民の強い意志と協力はあったと思うが警察機構の実行力も大きかった筈だ」 「もし現状に不満があるとすれば社会全体を見回し、何処にタガの緩んだところがあるのか、どう修正を加えれば良いのか国民の側から提言が有ってしかるべきだろう」 「団体により陳情や請願がないと動かないところに大きな問題を含んでいるし、予防対策の考え方が少しずれているように感じる」 「今論じていることは、何故極刑が出されないのかということです。公僕として国民を守り安寧を広め安心して生活が出来るようにすることが貴方達の義務ではないか」 「このままいけば多大な不信感と疑惑が生じ、法に対する遵守精神はおろか治安の悪化を招くこととなります」 「何れは裁判官に対する不満から被害者若しくはその家族から非合法な扱いを受けないとも限りません」 「そうなれば、法の精神は壊滅するでしょう」 「今までの形骸化した論法を受け継ぐだけでなく、踏み込んだ画期的な考えを導入する気持ち等持ち合わせてはいないのではないか」 「何のための法の番人なのだ」 裁判官は話を制止し男に問いかけた。 「貴方は会社員とあるが、会社には定款や規則があり順守すべきことが書かれている」 「業務を遂行する上でそれが全てか。それさえ履行すればストレスもなく円満に仕事がはかどるのか」 「社長や上司から無理難題とも取れる指示や命令に対しどういう対処の仕方で克服しているのか」 「夫々が受忍限界を持ちながらも容認範囲は我慢しているではないか」 「会社は一つの小さな法社会ではあるが、合理性や整合性を要求する反面、全く相反する事を平気で命令もする」 「社長の声は絶対であり言わば限られた中での法といえる」 「自分自身、家族、親族を大切に思うのは誰とて同じ事であり、置かれた地位、立場により言い分は違っても『絶対』に服従している。そこに違法性が有ったとしてもだ」「違法性の大小、当人の認知度の違いにより問われる罪は様々だが、法を理解し秩序を重んじるなら、法の網に掛からぬよう提言なり発言をして迂回しなければならないことは理明である」 「貴方自身、会社が出す不当とも取れる命令に対し、いち早く是正を求め行動を起こし適正に対処しているのか」 「確かに裁判官のおっしゃる通り身近に我慢のならないことがあります」 「先日も同僚が建築物件の入札に行き、ちょっとした手違いから左遷され困惑しておりました」 「ミスがあっての左遷は当然の措置ではないか」 「そうかもしれませんが当人は長く会社に貢献し実績もある男です」 「手違いの程度にもよると思うが」 「彼が担当していたのは公共工事で、入札当日は朝から雑用に追われ市庁舎に着いてまで別の物件の打ち合わせをしており、忙しかったのは知っておりました。入札が始まり市の設計より高い一番目の見積書を出すべきところを、何を勘違いしたかそれより安い二番目を出してしまったため弊社が落札してしまいました」 「驚いたのは弊社ばかりではなく、落札予定のA社を含む同業四社も同様でした。実際に最も動揺したのは市の担当者だったとの事でしたが、止む無く弊社が工事を受注することになった訳です」 「その後、弊社経営者はA社に詫びを入れ入札相当額の別の物件を譲り渡すことで何とか折り合いをつけ落着したということでした」 「従って、その失態に対する責任を取らされたということです」 「貴方は私を愚弄するつもりなのか。単なる間抜けな談合の話ではないか」 「違法なのは同僚の左遷よりも貴方の会社そのものだ」 「私にはそうとはとても思えません。何故ならこういった仕組みを作ってきたのは役人であり、よく言われる行政指導というものでは有りませんか」 「行政指導というには早計過ぎる。古い慣習が引き継がれてはいるが徐々に改正されつつある」 「談合という響きには抵抗もありますが、時には社会の成り立ちに必要なことで過当競争ばかりでは企業は永続しないものです。仮に安価な金額で落札した企業が手抜き工事の発覚等で倒産でもしたらそれこそ税金の無駄遣いと罵られ結果的に国益に反します」 「もっと本質を議論の上、方法を決めなければならないと思います」 「成る程。本質は重要な事な事かもしれない」 「法の不備や社会のモラル不足が無いとは言えん」 「他にも話したいことがあるのではないか」 「最近特に目に余ることがあります。それは交通マナーの悪化です。走行中平気で吸殻や空き缶、ごみ屑を投げ捨てる者が後を絶たないことです」 「更には徒党を組みジグザグ走行や暴走を繰り返し迷惑がる他をしり目に気勢を挙げる連中に対し、弛めの規制と暖かい罰では彼らのしていることへのケジメにはなりません」 「社会現象として処理するには余りにも大きな弊害を含んでいるように感じます」 「どういったことなのか、抽象的過ぎる」 「例えば銀行の経営破たんを見ても、経営者層の独善的な考えで不良融資を重ね、失敗の上塗りを繰り返し巨額の負債を抱え事実上の倒産をする」 「何処かに回避の道はなかったのだろうか。否、その途中には色々な方法があった筈です」「小悪を葬ることなく温存し続け更に悪事を重ねるがごとく巨悪に成長したと思われます。即ち、何処にでも見られるように些細なこととして見逃していれば何れ大事となり社会に降りかかってくるという例えでしょう」 「小悪の発生を抑止し、発生した場合は効果のあるカンフル剤を投与し二度と同じ事を起こさせないようにすることが大事であります」 「現状はカンフル剤どころか栄養剤をばら撒いている」 「然し、これは国民の是認するところであり、また、自由を望む意思でも有るのだろう」 「全てに規制を掛け統制を図ることは、人間として考える葦を否定することにもなるのではないか」 「規制と自由は相反するかも知れませんが、これほどの人間が密集していれば個の縄張りを持つことなど不可能であり、規制の中にこそ自由を求めなければならなくなっている。にも拘らず、他人の領分を侵し自己満足のエリアを拡大し、挙句の果てに朝夕の報道ネタに登場する。カンフル剤は効かず、暫らくして再犯再登場となる」 「規制の輪を広げ、網を掛けることで大罪を犯さずに済むものを、自由という切符を手にしたために、不自由な檻に閉じ込められるのは考える葦とは言えない」 「ましてや切符の使い方を知らない無知な者に殺された善良な人は何処へ駆け込めば良いというのだ」 「だんだん貴方の言わんとしていることが分かってきたように思える」 「然し急速に方向転換をしようとすれば脱線するか転覆する。こういった考えが人々の間で当然視され規制の強化として現れるようになるまでは、現状維持が続くのではないだろうか」 「泣く人が多々出ることで色々な議論が発生しては消え、消えては出現し多数総意で決められていくものだ」 「裁判官が決することの出来る範囲はそれほど広くはないし、大きなものもない」 「判断が政治、行政よりと捉えられても止むを得ないことと考えている。私自身、国権行使の一員であり体制を崩すわけには行かないんだよ」 「しかしながら、貴方の熱意には大変感ずるものがあった。したがって、私なりに踏み込んだ判決を下したい」 裁判官は速記官に顔を向けると記録を再開するよう命じ、原告、被告を見下ろし判決を言い渡した。 「単に夫婦間の下らない話の末の別居訴訟で、当法廷の尊厳を著しく汚す行為は許しがたい。然し、貴方は常に虐げられていると思われる節があり、同情の余地もある。依って、ここに情状酌量を以って貴方に2ヵ年の遠島、別居を命ずる」 裁判官は木槌を叩きニヤリと白い歯を見せると、くるりと振り返り法廷を後にしたのだ。 数日が過ぎた早い朝、男は轟々と唸る騒音とモウモウと煙を吐く金属体に閉じ込められ、まさに秒読みが始まっていた。そこには鉄格子はなく金属の光沢と、計器盤から発散する光に包まれたオペレーター室であった。唯一彼一人が秒を聞いている。 「何故私がここにいなければならないんだ。悪いのは私だけでもないのに」 「もっとも別居を希望したのは私だ。小煩いカミさんからこんな形で解放されるのも悪くはないか」 「裁判官も少し踏み込みすぎの嫌いはあったかも知れないが良しとしよう」 「2年分くらいの本はCDに入れてきたし、詰将棋の本もかなり入っているはずだ」 男の独り言は騒音にかき消されつつ、探査機は大気圏外へ消えていったのだった。
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