(平成23年11月27日)

「B級星人の台頭 」
 表現の方法は多様である。古くはアルタミラの洞窟壁画に始まりダ・ビンチやミケランジェロを経て近年は立体的な視覚に訴える映像等多様な技法が駆使され人を楽しませてくれる。そこにある感動は共通の言語と豊かな感情を育む。葦の船に揺られ心地よい旅をしているかのように。
 
 何時からなのだろうと太郎は思った。以前から住んでいたに違いない。質素に、それも堅実に、目立たずにひっそりと息づいていたはずだ。それが最近頓に話題をさらい注目を浴びている。だがこの注目は感動ではないように思えるのだ。ご都合主義、自己中、排他的等かぶせられる言葉は数々あるだろう。  この星には或る種の尊大な生き物が、わが世の春とばかりに他の生物を支配し大いに繁栄している。それだけでもこの星に住む他の生物には迷惑なのだが、その或る種の生き物の間でも表現を巡り諍いが絶えなくなってきた。

 表現は時として、心穏やかなる事象を提供するとは限らない。嵐のような騒々しい動の情景を、立ち枯れて荒涼とした静の沈黙を与えてくれる。怒りは表現の中でもより強く且つ印象的だろうと太郎は考えている。また、共感を呼ぶその表現は崇高であり後世に通ずる価値をもたらす。だがそれにつけても、彼らの表現は余りに稚拙に過ぎないのではないだろうか。共感どころか嫌悪感さえ覚えるのは何故なんだろうと思わざるを得ない。自己のコントロールの不備若しくは制御不能となって暴走する機械である。否、機械よりも始末が悪い。対するものを害し息の根さえ止め爆走するのだ。その果ての静寂があったとして、後悔という懺悔を示そうがそこにはもう表現の欠片さえ見当たらない。全ての生にあらゆる個体に表現があるはずなのに彼らは自己崩壊している事に気づいていないのだ。
 自然の風景に、華の香に、木漏れ日に揺れる影に星の住人は癒され唯我独尊を戒め、万物に様々な表現を見つけ移ろいゆく時を楽しんできた。だが、星の住人は時の経つごとに忘れかけ憑りつかれた様に疾走し始めている。その世界で自己が最上で最も優秀であると信じて。ダニング・クルーガー効果を知らないのではと思うほどに悲しいことでもある。
 確かに昔も居たように思う。でもそれほど表現から外れてはいなかった。許容範囲と言えば聞こえはいいが我慢のしどころとでも言えた。では何故最近顕著になったのだろう。その要因の一つに考えられるのが飛沫感染でも接触感染でもない媒体ウィルスによる感染ではないだろうかと思える。媒体とは言うまでもなくTV、インターネットによる通信情報であり、それはどんなに遠くても速やかにウィルスを送り込めるし感染させられる魔物である。思考回路を停止し口をあけ目を虚ろにしているだけでウィルスは感染する。そこが一般住宅であっても事業主の応接室、官公庁の高官室であっても難なく飛び込んでくるのだ。ウィルスは容認範囲と受忍限界を狂わせ表現という聖域を侵害し、瞬く間に侵略してくる。感染者は新たなる感染者を作り仲間を増やしていく。折角授かった表現は見るも無残に砕け散り掃き捨てられる。次第に狂暴化すると暴力や暴言が常態化し、傍若無人へと変わっていくのである。そうなのだ。3拍子揃ったB級星人の出現なのである。
 ある種の表現だけが一方向であっていいはずもなく、非常識のそしりを免れるためにも、学ばなければならない理性や知性があることを感じるべきではないだろうか。
 
お気を付けるようお勧めする。通信媒体に接するときには気を確かに持ち、耳目を塞ぎ心沈め飛び交うウィルスに向かって念じるのです。
「私に近づくなかれ。私は善良な小市民です。政治家や役人ではありません」と

追伸  太郎は呟いている。「B級星人はもっと広範囲に、それも身近に沢山いるだろうに!」と。


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