(平成23年11月24日)

「ぼた餅」
 賑わったその日から暫く経ってぼた餅が降ってきた。ぼた餅は小さな子供を持つ誰にでも降ってきた。食べきれないほど沢山持っている働きアリにも、食べたくても買えない働きアリにも。
 長い間自由という御旗を掲げ、権力と沢山のぼた餅を持った支配勢力による時代が続き、正直者の働きアリたちにとってはさほど楽しい世の中とは言えなかった。だが、変わったのである。若い働きアリたちの中には今まで打ちひしがれていた悲壮感を捨て、未来の薬園に大いなる希望と考えたこともない夢を抱いた。だが、降って湧いたぼた餅に喜んだわけでも美味しかったわけでもなかったのである。
 南の小さな島では長い間、頭上に重石が覆いかぶさり何時落ちてきはしまいかと気になって仕方がなかった。そんなある日、重石を取り去ってやろうという心の優しい鳥が何処からともなく飛んできて言った。
 「重石は長い間この地にあり、苦労を掛けた。これ以上ここには置かない。別の所へ持って行ってあげよう」
島の働きアリたちは基より、大きな島の働きアリも希望に胸を震わせ、その日が来るのを待ち続けた。だが、何時になっても何も変わらなかったのである。
 働きアリは何に感動しやる気と行動を起こすのだろう。一つには希望に満ちた将来への展望と楽しくも確実な未来である。くすぶり続け欺瞞と灰色の煙漂う街に、ようやく見えてきた薄明かりは、老若男女の働きアリたちを狂喜させ安堵の色を滲ませたのであった。恐らく色々と詳細を調べ上げ間違いのない正確な施策と思われたのだ。幸せの序曲はこうして始まったと感じられたのだ。決してぼた餅やニンジンを目の前にぶら下げられたのではないと信じて。
 それから数か月が経ち掲げた御旗は旗手の意に反し振るたびに苦境のるつぼに落ちて行っていき、内外の不信を買った末にリーダーの座を巡って内戦がおこった。結果、有言不実行をなじられ、鳥は玉座から引きずりおろされ、変わってかつて薬害医療に鉈をふるい一躍名を馳せた、正義の味方と考えられた鉄のような方が我が国を取り仕切ったのだ。だが、全てに歯切れが悪くカリスマ性に乏しかったことは否めず、又、不明瞭な自身の献金問題や弱腰外交とも思える拿捕した中国漁船の即時釈放疑念は一層の不人気を煽っていった。早期辞任を急かされていたさなか、あの3.11に伴う福島の原発災害である。原子力発電を稼働するに当たり掛けなければいけなかった安全対策費用をケチり、重大な災害を引き起こした罪は事業主にも国にもある。最も大きな罪はやはり国ということなのだろう。電気事業法の中で原子力発電にかかわる保安規定を提出させたのは国である。地震国でもあり、安全を第一に考える為の法だった筈だ。この規定が、事業主寄りの法が起こしてはならない事故を誘発したといっても過言ではない。だから、国が責任をもって償うと言っているのだ。でも、おかしいではないか。事故につながった遠因を、経緯を国民に知らせたのか。いかに法がざるであったかを伝えたのか。どこに、誰に責任があるのかを。
 この国は何時の頃から義務や責任がなくなったんだろう。免れているのは高官や政治家であり庶民ではない。庶民には何時だって重い義務と責任の垣根がそびえている。
 ぼた餅は形を変えて支給されるらしい。以前徒党を組んでこの国を支配していた前政権と手を携え協議に入るらしいのだ。重石は結局その小さな島に覆いかぶさったまま変化は見られない。至る所に関所を設けた道路の通行料は無料とはならず一部で減額の試案が施工されている。農家の個別保証がTPPによってどう変わっていくのかも見ていかなければならない。しかし、公言した施策を全て実施出来るとは誰も思ってもいないし、難しい問題と捉えている方が断然多いに違いない。ただ、期待したいこと、それは実施しようとする案件に対し限りなく「本気」が見えることではないだろうか。

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