(平成23年9月3日)

「段位と資格」
 段位はアマ弐段。随分前から変わっていない。もう30年位は過ぎている。久しぶりに免状を確認したくなり探したがどこにも見当たらなかった。桐箱の中にはその当時の名人揮毫の和紙が折りたたまれて入っていたはずである。支部長推薦により段位は取ったものの滅多に見ることもなく放置するのは、免状を授与してくれた日本将棋連盟に対し失礼のこととお詫び申し上げたい。
 段位とは厳密に言えば公的な資格のことではない。日本将棋連盟や日本棋院がその道に研鑽を励み、その域に到達した証しとしてアマチュアへ段位を授けていると考えられる。ただ、随分と費用がかかるのが頭痛の種である。アマ将棋では段位に関わらず参加できる棋戦が大半ではあるが、そうでない棋戦もあるのだ。それが県連主催の参段戦である。参加資格は弐段以下の連盟会員であれば誰でも参加できる棋戦なのだが、県大会で優勝することは至難極まりないのである。すなわち段位は弐段以下かもしれないが、段位以上の強者ばかりが参戦してくるのだ。理由はこの棋戦に優勝すればその栄誉とともに参段位が無料(これが一番の魅力)で授与されるからだ。将棋の世界には段位以上の実力者がいかに多いことか。
 プロの段位はアマとは随分と意を異にして、強さはもとより取得することすらとても難しく且つ熾烈である。幼い頃から日本将棋連盟が運営する育成会や奨励会で、全国から応募した子供たちによる競争が行われている。大人ですら敵わないほどの小学生名人や中学生名人が、此処を突破しプロとなる四段位を勝ち取ることは本当に大変な仕事なのだ。一時7冠を独占した羽生善治棋聖でさえ入門から四段になるまでに3年もかかっている。年間数人の狭き門は年齢とともに退会を余儀なくさせられるのだ。段位は順位戦と棋戦の成績により昇段していき最高段位は九段である。段位が上がるほどに対局料も増えるが増収の一番の要はクラスや組の順位である。例えば、順位戦と言われるクラスではC2,C1,B2,B1,Aクラスの5つがあり、名人戦を争うことのできるのは最上位のAクラスに入っている10名の棋士しかいない。その年間9局のリーグ対局料は開業医の約半分と思われるがここに在籍し続けるのも至難の業なのである。
 人は年を重ね体力の衰えとともに丸くなり、棋力も日の出の勢いは見られなくなる。自然と在籍クラスは下降していくが段位は下がらない。ということは段位は強さの目安ではないのだ。いわば一番強いその時期だけの表示なのである。では、段位だけが高止まりしていていいのだろうか。
 先ほども申し上げたが、段位は公的な資格ではない。だからさほど目を吊り上げ口角泡を飛ばす必要はないように思う。だが、国や自治体が実施している資格や免許については議論があってしかるべきではないだろうか。現在でも取得後の更新講習を義務付けている資格はある。また、最近、教員の免許更新制もH21年4月から導入されている。思うに資格とは段位と同じく取得したその時期の知識や技量(段位は強さ)が一番顕著であったということではないだろうか。であれば体力や知力、技能の低下をその当時の資格が正確に評価できようはずはないのである。
 私事で恐縮だが、仕事上資格は必要であった。なぜなら入社(ガス事業)当時の給与に対し、資格手当は相当な割合であったのである。一年目は重箱の隅をほじる問題にだるまの如く手も足も出ず完敗。翌年も計算力の無さで完璧に打ち負かされたとがっかりしていたのだが、なぜか一割の合格率を制し受かったのである。当時は計算機の持ち込みが出来ず全てが手計算であった。そのためか計算理論が正しければかなりの加点をしてくれたように思う。そうでなければ選択した計算問題は全て答えが違っていた筈だからだ。なにはともあれ悪運はあったようである。それから退職まで実力はさておき、同種業務に3度会社を変わりはしたが資格には随分とお世話になったと感じている。だが、これでよかったのだろうか。
 知識や技能は不変ではない。経験を積んでいくほどに合格時よりはるかに優れた知識や技量が発揮され実務に反映される部門もあるだろう。だが、そういった資格ばかりではないと思える。一度取ったが最後二度と再講習もなく不勉強がおおみえを切ってまかり通る資格が、余りにも多いと感じられるのだ。先ほども述べたが、教員に対し免許更新制を導入するに至った経緯は分からないが、それをするならもっと幅広く資格全体を見渡し、大いに議論の上実施すべきと考えられる。それも再講習ではなく再試験である。実施する以上、資格者としての要件は十分な適応性と専門能力を兼ね備えた人物ということになる。ただ、この教員の免許更新制の概要には「不適格教員の排除を目的にしたものではありません」と付け足した意味が良く分からないのだが。
 ともあれ、将棋と違って常に実務を取り扱う真剣勝負の資格が、たそがれ時の段位と同じように高止まっていてはいけないはずである。常に磨かれ資格の威光が感じられなければならないのだ。そう言った社会は新陳代謝が活発となり若い世代が十二分に力を発揮できる新しい時代である。取得後の資格は永遠であってはならず、老い行く年とともに消えていかなければならないのだ。老兵(老害)が今の社会を牛耳っていては何時までも夜明けが来ないのと同じように。

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