(平成23年9月1日)

「こおろぎコード」
 猫の額より少し狭い庭の一隅で鳴き続けている。薄暗い月明かりのそれもめっきりと冷たくなった涼風の中で。隣家との境に並んだつつじの垣根を背に、雑草除けで植えられたサツマイモの葉が青々と茂っている。ところどころに白い顔を覗かせている場違いなゆりの花も、狭い箱庭に霊妙な風情を奏で揺れている。枕元に届いてくる虫の音は脳裡の片隅にそんな情景を思い起させていた。

「こおろぎ君、鳴き方が変だよ。少し単調に思うんだけど」
「心地よくないんだ。まだ若いのは分かるんだが工夫が足りないよ」
「それじゃ伴侶は振り向いてはくれないんじゃないだろうか」

瞑った瞼の中でこおろぎ君に語りかけてみた。しばらく経って薄れかけていた意識に話しかけてくる声。

「誰だか知らないけど大きなお世話だ。僕はこれでも一生懸命生きている。僕の生き方に妙な注文を付けないで欲しいんだけど」

こおろぎ君は憤慨している。

「いや、申し訳ない。文句を言うつもりはなかったんだ。だけど、鳴くからにはその目的を達成するための努力は必要だと思うんだが」

「努力しているから食事も取らないで一生懸命鳴いているんじゃないか」「僕には時間がないんだ。邪魔をしないで欲しいね」

こおろぎ君は不満をぶつけてくる。

「君は知っているかい。清流にすむイトヨという魚を、美しい羽を持った風鳥という鳥を」「知ればきっと考えが変わると思うんだが」

「さっきも言ったけど僕に構わないでくれ。あと一週間もないんだから」

「同じ敷地の住人だ。他人事とも思えない。聞いておいて損はないよ。必ず役に立つと思うんだ」「イトヨという魚は自分の伴侶となる相手のために、柔らかい藻を集め自分の粘液で絡み合わせ誰よりも住み心地のいい家を作るんだ。風鳥だって同じさ。青い材料をせっせと運んできては、伴侶に気に入ってもらえる立派な巣作りをするために一生懸命さ」「君はどうなんだい」

問われてこおろぎ君は怒ったように言った。

「僕だって未来の花嫁のために巣の周りを綺麗にしておいたのに、加齢さんの奥さんが雑草が生えてしょうがない、といいながら僕の家をめちゃくちゃにしたんじゃないか」「僕にお嫁さんが来なかったらあなたの奥さんの性だからね」

「そりゃ悪いことをした。カミさんにはよく言っておく。俺からもお詫びをするよ」「まあ、家賃を取っているわけじゃないから勘弁してくれないか」

「そういう態度が良くないんだよ。僕らから家賃を取ろうなんて虫が良すぎる」「逆に僕らの美しい音色を楽しんでいるじゃないか」「それに巣作りの話なんか持ち出した意味が良く分からないよ」

こおろぎ君は若いのに的を射ている。

「いや、つまらないことを言った。言わんとしている事とはこうなんだ」

慌てて訂正しながら言った。

「決して比較しろというわけではないんだ。ただ、他と同じ事をしていたのではいいお嫁さんには巡り合わないだろうと思うんだ」「君よりも遠くで鳴いている彼の歌声を良く聞いてごらん」「とてもリズミカルで声も弾んでいる。また、そのハーモニーは心に訴えかけてくるように思えるんだ」「周りには花嫁候補が沢山いると思うよ」「言いたい事はたった一つ、個性を引き出す工夫をしてはどうかということさ」

「じゃあ、僕の声はだめだっていうの。これじゃお嫁さんは無理だと」

「そうじゃないんだ。個性は色々ある。工夫もそうだ」「工夫をすることで別のことが沢山見えるようになるんだ」
「われわれ人類がここまでこれたのも工夫を重ね改良を積んで文明を発展させてきたからなんだ。おかげで考える時間が増えて楽しく過ごせるようになった」

「僕には人の事なんか良く分からない。くたびれた顔には良く出くわすけど楽しそうにしている人には滅多に会わないよ」「工夫が足りないのは人間じゃないのかな」

「人類はいろいろな分野で発展を遂げてきた。医学も科学も目を見張るように」「今ではこの地球を離れ宇宙にもいける。我々を作っている元素の生い立ちもどうやって出来たのかも分かる。こんなに楽しいことはないだろう」

「それが工夫なんだ。工夫の積み重ねなんだ。でも、本当に凄いことなんだろうか」「スピードが速すぎると手に終えない事だって出てくるんじゃないのかな」

「確かに手に負えないこともあるが、それは一部だ。取るに足りないことさ」

「僕にはそうは思えないけど加齢さんがそういうのなら別に構わない」「僕に一つアドバイスをくれたから僕からも一つアドバイスを差し上げたいんだけど構わないだろうか」

「ほう、それは嬉しいね。どんなことなんだい」

こおろぎ君は加齢氏の弾んだ声に少し当惑しながらも静かに話し出した。

「加齢さんはダビンチコードという映画を見ましたか」

「ああ、見たよ。結構面白かったけどそれが何か関係でもあるのかい」

「キリストとは関係はないんだけれど、あの謎解きのような、暗号のような話なんだ」「人はようやくヒトゲノムの解明を始めた。もうすぐ分かるはずなんだ」 「遺伝子の情報から人の将来がどうなっていくのか」「DNAにはみんな書いてあるのさ」

「良く分からない。何を言おうとしているのか」

「落ち着いてよく聞いて欲しいんだ。実は有史以前に文明があったんだ」「その文明は今の人類と同じようにものすごい勢いで発展していったんだ」「だけど、手に負えない代物を作った為に制御出来なくなったんだ」「仕方なくすべてを放棄して地に潜ったのさ」「これが僕の精一杯のアドバイス。考えてくれるといいんだけど」「僕らのDNAを良く読むといいよ。きっと背伸びしない自然に気づくはずだから」

しばらく経って聞こえてきた鳴き声には優しさと甘い響きがあった。

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