(平成24年6月8日)

「クリエーターと物言わぬお地蔵様」
 作家が書いた本を出版する過程では挿絵を入れたり校正を掛けたりといろいろな人たちが編集に時間をさき製本化するようである。それはとりもなおさず売れるようにするための方策であるのだろう。即ち売るための工夫を余儀なくされているとも言える。だから「この本は貴方が作ったのではなく我々が作ったのだ」と、編集者から言われても返す言葉に窮することになる。
 しかしである。もともとのオリジナルのクリエーターは誰なのだろう。売るための技術を駆使する一種の創作者なのか、感銘をもたらすアイデアを具現させようとしているクリエーターなのか。おそらく言い分は双方にあるのかもしれない。かたや売れなければ飯の種にはならないとそっくり返り、一方は訴えたいことが削がれていると俯き嘆く事にもなりかねない。どちらの方を持つかは世の趨勢を見るようである。・・大金を手にするのか意志を貫くのか・・。ただ、そこに読者はどのような状態で置かれているのだろうか。
 相変わらずTVの面白さには行き詰まり感を覚える。時としてNHKエンタープライズやBBCのドキュメンタリーには度肝を抜かれ放心状態の心地よさを満喫することもあるがそれは滅多に味わえない。民放では懲りもせずバラエティー等の訳の分からない放送をながし続けている。そればかりか、見たくも聞きたくもないCMを押し付けてくる。何故こんなにもつまらないCMが作れるのか考え込んでしまう。こんな言葉を使わせて何の宣伝になるのか、役者の人選を間違えているのではないか等嫌悪感さえ漂って来る。
 依頼されCMを作る側はクリエーターであり、且つ顧客の要望に沿った作品を作る使命を帯びている。また、それを見る視聴者は必要と思えばメーカーが作るその製品を買う消費者となる。三者は持ちつ持たれつの間柄でありながら、購買力が下火になれば関係は修復されメーカーはCMの自粛に追い込まれ、CMクリエーター側は飯の食いっぱぐれに遭遇するのである。その間柄を端的に示すバロメーターがCMを挟む番組に対する視聴率という数値なのだ。だからなのか、視聴率は番組に対する絶対の信頼指数なのである。視聴率が高くさえあればそれだけの人が購買対象者となるからであり、メーカーを引きつけておく要因にもなるのである。番組を担当するディレクターもCMを作るクリエーターも視聴率は神様に違いない。だが、そこに視聴者はどのように見なされ位置づけられているのだろう。
 前者も後者も「売らんかな」の側に立つあまり大きなブラックホールに落ちていることに気づいていないように思われる。受ける側の気持ちがひとつも分かっていないのだ。おそらくクリエーター側の一部には察する気持ちを持っていようとも創作物の表面には出てこない。金を出す側の薔薇の刺が邪魔をして見えなくしてもいる。それが読者や消費者の気持ちを逆なでしていることを知ろうともしない。受ける側は俺たちの言うがままだと言わんばかりの横柄さである。そう思わせる代表格が視聴率なのであり、視聴率が高ければ世界は平和なのである。だが、視聴率を過大視してはいないだろうか。
 この国の住人たちは長い間封建制度に慣らされお上を大切に敬ってきた。お上の言うことは間違いないと信じてきた。ところが最近になって大事なことが隠蔽され住民の耳目を覆っていた事例が頻繁に見つかり信頼をなくしつつあるようだ。静かに音も立てずじわじわ浸透してきている。何かにつけ事実を隠蔽しようとする黒心クリエーターも売らんかなの本の編集者も視聴者をないがしろにするCM製作者ももうそろそろ気づいていい頃ではないだろうか。

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