(平成24年3月2日)

「幕を降ろす時」
 カーテンを引く。日記を閉じる。シャッターを下ろす。日課ではなくとも潮時が来れば自ら閉じたり閉めたりすることが通例である。古の日本人は潮時がやってくると身を引き一線を後進に譲ってきた。当人はさぞや口惜しく続投したかったであろうことは想像に難くない。自らをいさぎよく撤退させることはきっと死ぬほどつらいに違いなかった。事業は快調に快適ないい波に乗っていられとは限らず、艱難辛苦の険しい山を乗り越えまい進してきた経営者が多いはずである。だが、周りが退任するよう進言し始めるとどんな事業主とて、それが創業者であってもそれに応え執行権のない相談役に収まるのが精々であった。今までを支えてくれた重臣たちは信頼がおけたし、意を汲まなければならないほどに意志の強固な侍従でもあり、例えその身が危うきにさらされても言うべきは言い行うべきは行ってきた従業者でもあるからである。経営者も使用人も崇高な人格という絆で結ばれ共に辛酸をなめてきた間柄なのである。
 それに引き替え今は何という往生際の悪い事例が多い事か。東証一部上場の超が付くほどの優良企業や金融機関の事業主、或いは公に仕えていると言いながら全くの私人でしかない政治家や公務員は、常軌を逸し病のふちを彷徨っているにもかかわらず己の素行の異常に気づいていないのだ。井の中の蛙宜しく意のままに振る舞ってきた悪事が露見するや、どのTV局のニュースキャスターも鬼の首を取ったかのように声高に断罪する。確かに当事者に問題はあったであろう。執行者なのだから。だが、当人は知ってか知らずかそれともほっかむりを決め込もうというのか恥じ入る素振りはみじんも見せはしない。すでに常人の域は超えている。
 世の中の出来事はこれで終わりなのだろうか。当事者が緩めの処分若しくは甘過ぎる刑罰に処され全ては一件落着したのだろうか。恐らく、多分、良く分からないがこれで良いのかもしれない.経営者を支える重役だってその企業に勤める見識を持った従業員だってわが身は可愛いのである。楯を突こうものなら次の日にはハローワークに通わなければならない。家族を思う気持ちは誰だって同じなのだ。
 我が国でコーポレートガバナンス(企業統治)があまり問題視されない理由はどこにあるのだろう。長年この国に住んでいると分かるような気がするのは私だけではないように思う。少々のことは大目に見る風潮がある。してきたことへの評価は総合的であり、小さな過失は誇大妄想のように膨らんだ経営者の業績に飲み込まれる。社員とて社の対外的な失態があればひた隠しに奔走し露見を防ごうとする。そこには既に企業統治も倫理も正義もない、即ちユーザー不在の会社が出来上がっているのである。我が国全土に渡って。そこで内部告発をしようものなら経営者ばかりではなく上司や同僚から白い目で見られ迫害を受けるのは間違いないことなのだ。国の機関も一流企業も洩れなく全てに一様であり、それをこの国の人たちは皆、嫌々ながら認めているのである。勧善懲悪の時代劇やドラマが好まれる背景には、反面そうでありたいと願う人々の切ない思いが見え隠れしている。だが、それは遠くない何れの日にか改善され住みよい国造りが進むはずである。そうしないと諸外国からうそつきの国と揶揄され相手にしてもらえなくなるからだ。企業統治などの評価を行う調査会社GMIによると、企業統治のランキングで日本は38カ国中33位で、ロシア、ブラジル、中国よりも下位となっている。
 早晩、人々の意識を変えなくては何れ最下位に転落してしまう。口の悪い連中に、世界の長寿国として名を馳せた我が国が、往生際の悪い人が多くなったせいだと言われるようにはしたくないものである。

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