(平成23年8月13日)

「ルールと運用」
 大分遡って恐縮なのだが、今年2月のことである。K市の市民文化会館で行われた支部対抗団体戦及び同支部名人戦県大会での出来事。表向きは県連主催であるが、100名をはるかに凌ぐアマチュア棋士が集う会場の設営準備に始まり弁当の手配、後片づけ等、K市の支部役員がおぜん立てをし終了まで影の立役者として働くことが、開催地の役割なのである。大会は県連役職者、関係者の挨拶に始まりスケジュールや競技方法が説明されるとすぐに試合が始まったのである。支部対抗団体戦及び同支部名人戦とは、県内の各支部から選抜された代表者が全国大会をめざし優勝を競う大会であり、参加資格は日本将棋連盟支部会員だけの特別な将棋大会でもある。
 世の中にルールがあるように将棋にもルールがある。将棋が江戸慶長の時期にお城将棋として確立してから今日に至るまで大きなルールの変更はない(多分)。恐らく千日手の回数や持ち駒点数くらいではないだろうか。ただ、大きく変わったことがあるとすれば持ち時間の正確なカウント方法だろう。昔と違って現代は忙しい。対局数は数え切れないほどある。それに文明の利器も出来た。それがチェスクロックだ。将棋では対局時計という。対局時計とは横長の対になった時計である。自分が考慮しているときは自分側の時計が進み、指し終えて自分側のボタンを押すと、相手の時計が進むようになっている。相手が考えているときは自分の時計は休んでいるという時計だ。従ってプロの対局のように記録係は不要なのだ。だから事件?は起こったのである。現代は忙しい。忙し過ぎるからこのようなことになるのかも知れない。
   将棋のルールには切れ負けという切ない規則がある。この規則、大概はアマチュアに適用される。対局を制限時間内に終わらせる為に考え出された方法であり、仕方のない決まりかも知れない。今大会も確か20分切れ負けであったように思う。即ち自分の時計が20分を過ぎたら即刻負けになるということなのだ。会場内の対局も随分と進み佳境にさしかかった頃、ある対局者の所でそれは起こったのである。対局している一方(当支部のHさん)は数手後の詰みを確信し腕組みをして悠然としている。方や手番を渡され詰まされんとしている相手は中々指そうとはしない。その内、腕組みをしている方の同じ支部の応援者が観戦にやってきて時計を見て言ったのだ。「時計を押さないと時間が無くなるよ」そう言われて腕組みをしているHさんは慌てて時計を押したのだが、すかさず相手から意義が申し立てられたのであった。審判長が呼ばれ更に県連の役員が集められ協議の結果、敗色濃厚であった相手方の勝ちとなったのである。時計を押すように言った、その助言の禁止(将棋のルール)がその理由であった。しかし、恐らくは助言がなくとも残りの持ち時間は後僅かであったことから、Hさんの切れ負けは避けられなかっただろうと思われる。相手も数手後の自玉の詰みは分かっていたはずである。だから、指し進めることをせず腕組みをしている優勢な相手の時計が切れるのをじっと待っていたのだ。釈然とはしないが、ルールはルールなのである。
 大会によっては時計の押し忘れを極力防ぐため、相互に或いは他から助言する事を容認している場合もあり、時計の切れ負けについては異論のあるところである。切れ負けとは互いに指し手争いの中、時計が切れることは納得しても押し忘れによる時間切れ負けは、なんとも歯がゆく気分の悪いことかと同情を禁じえない。目的のための条件が捻じ曲げられ、違う結果を作り出しているとしか言いようがないからだ。
 世の中にはルールを作ることに躍起となって、基本的な運用(考え方)を疎かにしている場合もあるのではないだろうか。例えば最近頓に言われるフレーズに「可視化」という言葉がある。可視化とは状況を目で確認する方法(視覚化。聴覚を含める場合もある)を言い、目や耳に訴えることは文字や写真よりはるかに分かり易いし、一目瞭然と古より言われている通りである。では今なぜ可視化なのか。やはり社会が複雑怪奇になってきているからに違いない。或る者はこう言う。『なにも自ら不利になる話をする必要はない』と。この考え、アメリカかぶれの人達がよく使っていたのを思い出す。証拠を突きつけられ、行き場所がなくなって初めて、それも仕方なしといった態度で認めるのだ。我が国も随分以前よりアメリカナイズされた考え方が持ち込まれ定着しつつある。これらは取り調べられる側だが、取り調べる側にも昔ながらの慣例はある。密室での権力という絶大な武器をちらつかせ、傲慢な所作がないとは言えない。時には数少ない証拠の中から容疑者を特定しなければならず、限りある人員と時間に制約を受けての作業は大変であろうとは思う。だが、果たしてそこには常にモラルと正義はあるのだろうか。双方に首を傾げたくなる事情はある。だから可視化なのか。それが合理的で公平なのだろうか。  決して不平、不満を言うつもりも否定するつもりもない。しかしである。このまま「可視化」を進めるだけで良いのだろうか。今後社会がますます複雑化し「可視化」に対応すべく演技力の指導や心理学の習得等、より高度でより分かりにくい社会が到来するかも知れない。「可視化」で判別できなければ今度は何を基準にするのだろう。どこまで行っても「可視化」は「可視化」でしかない。
 昔から日本では道徳教育が当たり前のように行われてきた。『嘘は泥棒の始まり』と教えられたのも幼い時だ。何時の頃からか道徳教育という言葉は聞かれなくなり、自然と共に過ごしてきた文化を捨て、口を開けば国益しか言わないアメリカの自己チュウウィルスが日本中に蔓延している。小さい時の教えは大人になっても忘れることはない。誰もが言うことだが、教育は大事なことだ。あるがままをあるがままに伝え、あるがままに生きることが大切なことのように思う。「可視化」というルール作りの前になすべき運用があるように思うのは私だけではない筈だ。

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