(平成24年3月2日)

「思考の様々」
 音や光が閉ざされ漆黒の闇に覆われると動き出すのです。それは生き物のように広がり活発に動き回り生気をよみがえらせる。心ははずみまるで少年のよう。何をしようか、どうすればいいのか、どうやったら出来るんだろうと胸を躍らせる。闇に眼を輝かせ回路は止めどなく回り落ち着く先を知らない。
 今、現代を生きる人々の幸せのひと時とは、どのような形をしているのだろう。恐らく全てに手の届く距離にいる人もいるのかもしれないし、そうでない人もいるだろう。距離が幸せを運ぶ物差しに成り得るかは分からないが、それが可能という安堵感を与えてくれるならそれも一興である。そうでない人はそれを目指し日夜奮闘の決意を新たに粉骨砕身の努力を惜しまないのかも知れない。人は様々である。ただ、全てに届くことが幸せとは言っていないし、そうとは限らないのは世の知らしめるところでもある。届かないことが幸せなことだってあるのだから。努力の甲斐あって望みや希望が具現されると更にアドレナリンやエンドルフィンが出てくるだろう。とても楽しい気分と同時に幸福感もますます高まっていくに違いない。
 だが、考え方は幾つかある。特別お勧めという訳ではないが、その一つの方策とは、孤独になるという至ってシンプル且つ簡素な方法である。狭い我が国ながら、甘美な誘いから身を遮断することは容易である。甘美とは言うまでもなく自我を惑わす情報とでもいえようか。場所や日時を選べば比較的簡単に独りになれる。例えば山に籠る。但しクマやサルのいる奥深い地域は敬遠したほうがいいだろう。余程山奥に足を踏み入れなければ問題はない。何せ我が国の森林は国土の66%をも占めているというのだから、他の人と滅多に鉢合わせをしない場所はいくらでもありそうだ。特に地方に住む田舎者は難しくない筈である。山に籠ったなら、携帯電話もラジオも情報を享受できる全てを切って人工物から身を遮断することである。開けた野原でも険しい崖の上でもいいから腰を下ろし顔を空に向け、目をつぶり風の音に耳を澄ませるだけでいい。一時間経ち二時間が過ぎる頃聞こえてくるはずである。瞼の内側に見えてくるのである。それは夜自室で光もなく音もない独りの時間に訪れてくる世界とはまた一味違った趣きを与えてくれる。
 今、若者は歌や踊りに目を奪われ世の情報を共有しようと懸命である。否、若者だけでもないように思う。共有しないことが即落ちこぼれるがごとく躍起となり、日夜その収集に耳目を奪われ思考停止の日々を過ごす。思考停止とは独自の発想を止め他人の褌を如何に有効に利用するかという極めて悲しい発想なのだ。独創性を研ぎ澄ましアカデミックな技術も心に響く説得力のある提案もあまり見受けられない。世は過酷な褌の取り合いの様相を呈している。メディアも社会もそう言っているしそのように聞こえもする。しかしである。惑わされてはいけない。立ち止まり耳を澄ませば聞こえてくるはずだ。目をつぶっていても見えてくるのである。個性的な自我の息吹が、独創的な発想力が湧き上がってくる事に気づく筈なのである。発想力は必ずや身を助け苦難を克服してくれるに違いないのだ。何をどうすればいいのか教えてもくれる。
 自我を、発想力を習得したい向きには孤独になることを心からお勧めしたい。だが、できることなら若いうちに試すべきではないだろうか。何故なら折角身につけた能力が発揮されずに終焉を迎えるのでは宝の持ち腐れになりかねないからである。
 騒然とした不信社会に自我を確立した「孤独人」よ。幸いなれ!

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