(平成24年6月8日)

「天は二物を与えず」
 どこかで見聞きしたような。果たしてそうなのだろうか。今まで長らえてきてつくづく思うのだが決してそんなことはない、そんなはずはないと。もしそうならこの体たらくはなんなのだろうかと。
 何処を見回しても、誰を拝しても「努力」という作業をいとも簡単に容易く成している。当人の意識の有無にかかわらず寸暇を惜しんで行動を起こし継続しているように思えるのだ。ましてや意識下の超人は、我が煩悩渦巻く灰色の脳みそにとって計り知れない驚異であり、考えられない神の采配を振るうナタを持っているである。
 これはベーシックなのか。おそらくそうに違いない。それは創造を形成するための基本中の基本のツールなのである。だからその人たちは大なり小なりのツールを持っているのかも知れない。このツールはエネルギーを燃やし希望を引き寄せる方策でもあるのだろう。中には縦横にツールを駆使し才を拡散させ、見る者、聴く者を圧倒する神の領域を披瀝する。それは世紀をまたいで現代に浮き上がらせてもいる。絵も彫像も発明品であっても然りである。
 才はツールと共に一瞬のヒラメキを開花させ世に光を希望を満ち溢れさせていく。が、既にここでは、この者には、二物どころではない幾つもの天与の恵みを授けている。ただ、恐らく稀に見る極めて希少の逸材ではあるのだろう。百歩譲って仕方の無いことだと我慢しよう。天も見過ごすことだってある。だが、それにしても、我が身の回りには二物以上を携えた逸材がひしめき合っている。これはどういう事なのであろうか。どうにも解せない。我が辞書には、開花させ成就させるための基本となる「努力」という熟語さえないのである。にもかかわらず「天は二物を与えず」と宣われているのだ。出典を調べてみても要領を得るものは見当たらない。誰がこのようないい加減な言葉を吐いたり、記したりしたのだろう。それとも私のような者へ希望を与える名言なのか。
 考えている内思いついたのだ。世の中は井の中よりも広いものである。私と同じように一物さえ備えていない者もいた筈である。ある時、その者を含めた才人の集う同窓会があった。これといった才能を顕せないでいたが、飲み会の席上、鍋を担当した彼は、生煮えの具を配ってしまったのだ。しかし、心ある周りの友人たちは、「天は煮物を与えず」と言って彼を擁護したのである。以後一物をも持たない者であってもそのものの人格を尊重し将来を期して「天は二物を与えず」と流布させたに違いないのである。(そんなことはない?)
 遠まわしとなったが言いたいことはひとつである。「努力」と言う文字の乗った辞書はどこに行けば手に入るのか。まだ見ぬ時空に夢を馳せあがいている者がいる。もっと希望をいえば、どのようにドリョクすればそのツールを手にすることができるのか知りたいのである。

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