(平成23年7月2日)

「のがっぽい日」の思い出
 当時の片田舎は平穏が至ってごく自然のように朗々とした日々を送っていた。霞ヶ浦を閉じて海へ流れ出る川の名を北利根川と言い、そこに架かる同じ名を冠する橋の欄干には機銃照射の跡と教えられた穴が幾つか開いていて斜め下を行く下流側が覗けた。別にそこからでなくとも川面は見降ろせられるのだが、学童にとって一センチメートルほどの厚みの鉄板に開いた楕円は物珍しかった。春になると橋の上から川幅一杯に群れを成して下るボラを、釣り針にイナゴの幼虫を刺して糸を垂れる人も見受けられ、のどかでゆったりした風情を映していた。橋の左岸側にはポプラの並木が十数本植えられ絵になる景観を呈していたが、ある時珍しくも大きな台風が襲来し数本がなぎ倒されるに及び絵を台無しにしてしまったのである。何時の頃であったか定かではない。限りなく不透明にかすれ行く思い出は、めくるページの年代を確認できぬ程随分とあやふやなものに感じられている。
 幼い頃より泣き虫のくせに悪がきであった。鶏小屋へ忍び込んで卵を物色したり、こっそり屋敷栗を盗りに行っては追いかけられたりと遊ぶことには事欠かなかった。その度に見つかっては柿の木に縛り付けられ罰を受けていた。悪さはウサギを飼っていた小学生の時分に大きな転機が訪れた様に思う。その頃は小さい子は誰もが生き物を飼い育てる風潮があり、悪がきも父親にねだってウサギを二羽買ってもらった。学校に行く前か下校後は必ずと言っていいほどウサギの餌(草)を堤防の土手や直ぐ裏手の小高い丘に登って取りに行っていた。餌になる草は豊富に自生しており学童でも容易に手に入った。ある日、丘に登る途中の狭いながらも大根やニンジンを作付し自家用にしている畑地の傍を通りかかった時のこと。悪がきにこれといった意識が働いていたわけではなかった。まったく他意はなかったのだが、手にした鎌で収穫時期を迎えた青くび大根の首を面白半分に次々とハネていたのだ。今にして思えば何という不心得な所業であったことかと恥じ入るばかりだが、その時は全くと言っていいほど罪の意識はなかったのである。その日の晩、誰かが悪がきの様子を見ていたのか、所有者が家に押しかけてきたのだ。たまたま応対に出た悪がきはその剣幕に恐れおののき泣くばかりであった。父親が聞きつけ話に加わり平身低頭の詫びを入れその場を納めてくれたのであった。怒りの来訪者が帰ると、当然のごとく悪がきに雷が落とされこっぴどく叱られたのである。翌日母が何らかのお詫びのしるしを持って謝りに行き、悪がきは父親の言いつけどおり床屋で丸坊主にされたのであった。思えばその頃より悪さは途絶えていったように思う。
 今の子供達はどうなんだろう。私に子供がいないせいか良く分からないが、皆優等生のように思えるのだ。中には確かに口の利き方がぞんざいな子や、繰り返しの説明をあまり真剣に受け止めようとしない子もいる。しかし、私の時代に比べ総じて優秀な子供達ばかりだ。なのに時折世に現れ出るニュースは驚愕ともいうべき事件を目の当たりにすることがある。何故そんなことを?誰も予兆に気が付かなかったのだろうか?してはならない事への小さな経験をする機会がなかったのだろうか?叱られることへの言い逃れを容認してはいないのだろうか?
 昔の教師に比べて今の教師が欠点だらけとは言い難い。むしろ熱心で勢い余って体罰を課し問題視される教員もいるようだが、昔ならよくぞ注意してくれたと親が感謝したほどだ。人間の営みには多少なりとも「理不尽」は付き物のように思う。或る人の「正義」は別の人の「理不尽」かも知れず一様ではない。それは時の流れとともに様変わりしてきた。常識という範疇が「理不尽」を際立たせてきたからだ。だが、学業に限らず社会は「理不尽」の温床でありどこに容認範囲と訴訟範囲があるのかを見極め学ばなければならない。学ばせるのは親の責任でもあるだろう。「理不尽」は人を孤立させ深い思考の淵を彷徨わせる。あがき苦しみ這い上がってやっと一人前なのである。そこには自信と他に屈しない強烈な個性が待っている。這い上がってくるのは勿論自分自身でしかない。
 余談になるが、これも何時のことだったか記憶のページが破れかけ正確ではない。小学生の低学年の頃のこと。或る友達の玄関先で将棋をしていた時、その家へ来客があった。客人は愛想よく「本将棋なのかね」と声をかけてきた。悪がきにこれも他意はなかったのだが生意気にも、「あたりめえだ」と答えたのだ。咄嗟に友達のお袋さんから「こら!○○坊!」と怖い顔で叱られたのである。悪がきは親にも赤の他人にも大いに世話になりながら生きてこれたのである。それから何日か経ってその家の前を通りかかったとき、その家の飼い犬が走る者を見るとすぐ噛みつく癖のあることを忘れ、何かの拍子に駈け出していたのだ。繋がれていない犬は、その時は善良な悪がきの背中にここぞとばかり噛みついたのだった。まるで言葉の使い方を知らない子供にお灸をすえるように。
 色々と教育をしてくれた両親はもういない。天国へ行ったはずだ。半世紀を過ぎて思うことがある。あのわん公は天国に行けただろうか。

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