(平成23年4月13日)

「手 筋」
 ピアノやヴァイオリンの習い事、或は一般的に言えば仕事でも筋がいいと言われれば嬉しいものである。筋がいいのはセンスがいいとも考えられる。お世辞であれ少なくともそれに適していると思って間違いはないだろう。否、そう思いたいものだ。
 将棋とは各々の駒の働きを良く熟知し、その連携と組み立て方法を考えて攻めや防御に専念するゲームである。常に相手よりいい手(筋のいい手)を指していれば滅多に負けることはない。ゲーム中にアマ高段者やプロの先生から筋がいいと言われれば舞い上がって当然である。
   プロの将棋において、しばしば見られる詰め手順の妙は見事と言わざるを得ない。そこには意表を突いた手順で見る者の心を歓喜させてくれる詰将棋の世界がある。実践譜を離れれば奇想天外・奇奇怪怪なる創作の世界が広がっているのは当然と思える。実践ではあり得ようもない駒が盤上に配置され、明らかに意図的な要素がそこここに充満していても、詰将棋の初型が美形であったり、詰め上がりが曲詰めだったりと作意には驚嘆させられる作品が多々ある。それらの詰将棋を解くのは手筋と言われる方法であり、一種のセオリーともいうべき駒の捌きである。普通に駒を並べて詰んだのでは詰将棋とは言わないし、やたらに駒の取り合いもしない。(ただし、煙詰は例外である)一見して詰んでいるようでいて詰まないが、よく読むと詰むのが詰将棋である。
 詰将棋にはいろいろな手筋物がそろっている。将棋の手筋は見事なファインプレーと鮮やかな収束(歓声)が解く者を爽快にさせる。ファインプレーとは盤面に次々と犠打を放ちゴール前にアシストさながらパスボールや華麗なドリブルを軽快に運ぶ様を言う。次は言わずと知れたウルトラシュートに酔いしれる歓声である。その歓声を聴きたいがために無い知恵を絞り延々詰将棋図を睨めるのである。解けるまで無為とも思える時間を必死になって。周りは内心思うだろう。余程することのない哀れな奴と。
 ただ、詰将棋だからと言って手筋物ばかりとは限らない。無筋。それは取りつく島の無いような駒の配置なのである。何処から糸口を見出せばよいのか皆目わからない。余程性格のねじれた人物が創作したに違いない。そう思いたくなる程手強く超難解である。暇を見つけては詰将棋図を凝視し続け、頭が空回りするのを覚える頃にはもう解く気は失せている。毎日毎日、一週間が過ぎても解けない。最後には解答手順のお世話になるのだがそれでもしっくりいかない。解が分かったというのになんとなくすっきりしないのである。それは手筋という爽快感もないまま手も足も出ずに召し取られた感が渦巻いているからに他ならない。この無筋ともいうべき難解詰将棋を創作することは、解くよりははるかに大変な作業であることは間違いない事だ。だが、解きたくないのも事実である。
 世の中には水面下で賛同を得られるよう画策する事を根回しと言う(らしい)。根回しをする者はさながら作意に富んだ「創作者」とでも言える。この「根回し」、今では政治家や行政マンばかりではなく町内会においても行われる茶飯事の作法だ。いざ会議が始まれば懸案事項に滞りはなく、デジャブに遭遇して納得しているわが身を見るばかりである。一連の流れはスムーズに足踏みすることもなく収束していく。ある者「創作者」にとっては常套手段の如く作意を以って聴衆を魅了し爽快?にさせる。何か詰将棋に似てはいないだろうか。そう、「手筋」にだ(手筈と言ってしまえばそれまでだが)。しかし、全てがここに収まるとは限らない。「根回し」すら拒否され会議は騒然と紛糾し、取りつく島はおろか解決の道筋さえ見つけられないこともある。この「創作者」の作意は空転し手筋は闇に葬られ議場は無筋の戦場と化す。ただ、人はこの状態を好まないものだ。何とかしてこの惨状から逃れたいと願うのが世の常なのだ。果てしない時間を費やす空論と限界を超える消耗は何時しか些細な光明を見出し解決への糸口を掴んでいく(多分)。結果的には優れた創作物が出来上がっていくものである。そう、「無筋」の完成が。
でも、そこに参加したくも解きたくもないというのが「食えない奴」の本音なのです。
 話に少し無理があったように思う。考えが全くの無筋なるが故ご容赦を!


*曲詰めとは初型や収束図が文字や絵になぞらえてある詰将棋図のこと。
*煙詰めとは初型が全ての駒(王将のみ不使用。)を盤上に配置し必要最低限の
枚数(盤上には玉と攻め駒2枚)で詰め上がる 詰将棋の総称である。

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