(平成23年7月19日)

「読みと姿勢と」
 降り出した雨は夜半に入ってますます強まり道路際のビニールハウスを激しく打ち鳴らす。静かな日の夜は遠くに回送電車の小刻みに忙しいリズム感を響かせた機械音が届いてくるが、今日は風と雨音だけが騒々しくがなり声をあげている。嵐の近づいてくる今日も無駄に起きて何を書こうかと迷っている。とりあえず将棋のことから入ろうと思うのである。
 将棋の通り手数はチェスの倍、囲碁の1/2と言われている。(はっきりした理由は良く分からない。この通り手数が意味のある指し手?(有効手)を指しているのか否かも分からないのだが一般的にはこれくらいと言うところなのだろう。)一手指すごとに枝分かれする有効な手は少なくとも数手はあるように思う。従って3手の読みを入れるとなれば(有効手)の3乗となりそれだけで十分な時間がかかることとなる。
 プロに限らずアマでも少し将棋を覚えれば一手ごとに膨大な通り手数を読むようなことはしない。特に終盤では持ち時間が切迫して無駄な手は読まない。読んでいる余裕はないのである。経験的な直感といわれる手を指すことが多いのである。たまたまそれが最善手か次善手かで棋勢は大きく動くことになる。それ以前に読みが浅く一手ばったりの手を指そうものなら頭を抱えても後の祭りなのだ。
 随分前になるが、人望も解説でも評判だった原田九段が言っていた言葉に「3手の読み」という名言があった。これは初心者に対して将棋を指すときの心得のようなものである。3手とはまず自分が指し相手の手を待ち次の自分の手までをいう。指してから考えるのではなく熟慮を重ねよく考えてから相手の出方を待つことであり、人生の処し方に似ている。いきなり駆け出してもいい結果を得られることは少ない。時によっては大失態を演じることにもなりかねない。自分が提示した話に対し相手がどんな条件を出して来るか予測し、それに応じた対策を考えておくということである。対話がかみ合わなければ読みは無駄になり一から方策を考えなければならなくなる。悩む時間が多いほど考慮時間は減り続け戦況は不利に陥る。すなわち交渉や商談は相手主導に引きずり込まれ、たじたじになる場合が多い。もちろん仕事では人望が大きくものを言うこともあろうが、論理的計画性も重要視される。広範囲に深い思慮は往々にして身を助けてくれるものだ。 
 しかし、人間にはヒューマンエラーという普通では考えられない出来事を引き起こす厄介な持病がある。読んでいて当たり前の手順を見逃し「アッ」と叫ぶことがいかに多いことか。(ヒューマンエラーとは言わず阿呆の見落としか)プロでもたまにあるのが反則手の2手指しや2歩である。2手指しとは相手の手番を無視し、続けて指すことで勿論禁じ手であり即負けである。滅多にないが時としてトイレに立ち、対局室に戻ってから相手が指したものと勘違いし続けて指す場合があるのだ。相手から指摘を受け絶句している目はこの世界を離脱している。2歩は同じ筋(列)に味方の歩を2枚打つこと。これらは3手の読み以前の思考回路の断線であり自滅行為だ。先走ってはいけない見本で仕事においてはくれぐれも注意すべき点なのである。こうして無駄にしない原田流3手の読みは人生に有意義なのがお分かりいただけると思う。
 次はタイトル戦に触れてみたい。プロの対局姿勢は学ぶところが多い。座敷に用意された盤駒とふかふかの座布団、その脇には錦織の脇息が正装(昔は着物であったが最近は背広のこともある)に身を包んだ対局者を待っている。着座の向きは高段者若しくはタイトルホルダーが上座と決まってはいるが譲り合うことも珍しくはない。ほほえましい場面ではある。それとは逆に上座を巡って静かなるバトルを起こした棋士もいる。拘りの棋士は妙に曖昧な規定に矛を突き上げたのだ。裁定は立会人により決着を見たと記憶しているが、礼を重んじる世界にあって珍しくも週刊誌のネタに登場したのである。
 普通は挑戦者が先に入室する。立会人に挨拶し着座してタイトル保持者を待ち受ける。これも礼儀の一種としてまかり通っている。たまに逆の場合もあるようだが、これは挑戦者を動揺させる戦術なのではないかと思うのである。一種の戦法であれば戦う前から冷たい火花が見えることだろう。ふかふかの座布団に正座しお辞儀をして対局が始まると、この部屋にいる限り正座を崩すことはない。センスを扇ぎ読みのリズムをとる体を揺らせても正座は崩さないのである。何時間も。仕事先なら顧客は目を見張るに違いない。
 駒を持つ手つきも指し方も棋士により様々である。闘志を指先に込め力一杯まるで盤にめり込ませんばかりに駒を打ち付ける棋士もいれば、駒音も立てずそっと盤に置く棋士もいる。棋士に戦闘能力やその表現は欠かせないのが定番のはずだ。盤上の格闘技なれば、見る者はそれを期待するものである。ところが違和感を与えるこの棋士がめっぽう強い。誰と指しても静かに自分の気配を消して駒を進め勝利を手中に収める。今はタイトル戦から距離を置いているがそろそろ檜舞台に上がってきてほしいものである。正座を崩さずモナリザの微笑を携え静かに相手の闘志を萎えさせる一風変わった棋士に栄光あれと祈る。
 我先にと争い権力を誇示し恫喝を繰り返す社会に一陣の風を期待したいのだが。

 
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