平成22年教化学大会発表原稿
坪井 良行
郵便376-0056
群馬県桐生市宮本町3-9-15

                    寺起こし、町起こし                                 
/仮説、天海大僧正が造った桐生新町をめぐって/
                                              光明寺住職   坪井良行



1、はじめに        

 今回、題名「寺起こし、町起こし」副題「仮説、天海大僧正が作った桐生新町をめぐって」は、多分に願望的発表であった。
題名「寺起こし、町起こし」は、将来の願望であり、副題の「仮説、天海大僧正が作った桐生新町をめぐって」と言う構想は、将来の研究者による合理的証明を待たねばならないであろう。

 しかし、今回発表する内容は、この願望の結果私が気づいた事であり、私が知る限りでは、新しい発見もあるのではないかと考えている。以下そんな報告文書である。将来、題名と、副題の通りに成る事を願望する。

2、桐生新町と根本山

 桐生は東の織物の産地として、江戸時代に徳川家の庇護の元、最初の最盛期をむかえた。また、江戸時代を通じて、天領、もしくは親藩の領地としての歴史を持つ。しかし、現在織物産業は往時の勢いは無く、海外の安い製品の前にその繁栄は、歴史の話になろうとしている。織物産業の衰退と共に町は元気がなくなり、人口は減少し、桐生の旧市街を貫く本町通りは、店を閉める商店の多さから、別名シャッター通りと言われる様になった。昔の繁栄と比べるとその落差から、衰退地方都市の典型的見本と言えよう。こうした地方都市にとって、町起こしと多くの人々にともかく寺の門をくぐって貰ういわゆる寺起こしは、決して容易ではない。その為には、沢山の人々が永続的に寺や町のあちこちを訪ねたくなる様な実にワクワクするテーマが必要なのだ。この報告は、地方寺院住職として檀信徒や地域の人々と交流する過程で思い立った一仮説にすぎないが、少なくとも現地に足を運びたいというロマンだけはかきたててくれるのではないか。

 その桐生の旧家に佐羽家がある。その当主、佐羽秀夫氏の南ロータリークラブでの卓話集「桐生の歴史を語る」と、桐生の歴史に詳しい饗庭正男氏の話に触発を受け、今回の研究がはじまった。

 江戸の町が、江戸城から、丑寅の方向に徳川家の菩提寺天台宗寛永寺。また、未申の方向に、やはり徳川家の菩提寺浄土宗増上寺がある。表鬼門、裏鬼門を守る両菩提寺に、歴代将軍の墓がある。歴代将軍が江戸城に向かって、束帯にて安置されている事は、マスコミにも紹介され周知の事である。江戸は霊的に守られる様設計されたと、話題になった。
佐羽氏の本では、桐生新町の成立について、徳川家による江戸の成立と同じ時期に、桐生新町も町立てが行われ、まさに桐生新町本町通りは、江戸の湯島天神、江戸城、増上寺の並びと同じ様に、江戸の並びと桐生の並びは平行して、上に桐生天満宮、下に増上寺と同じ浄土宗の浄運寺があり、風水による江戸の設計を持って来たとの説明であった。

また、桐生の日光方面に、根本山と言う山がある。江戸時代に根本信仰が栄え、多くの江戸からの参拝者をむかえた歴史を持つ。
 饗庭正男氏によると、静岡の久能山から日光東照宮に線を引くと、桐生根本山の山頂を通る。根本山は特別な山で在るとの指摘であった。桐生市史別巻頁232に書かれている根本山の記述を見ると、修験道の開祖、奈良県の吉野を開いた「役行者」が富士山に登ったおり、「東北に向かい、瑞雲天に頂くの山あり、…根本山と名づく」とある。
 つまり、根本山は富士山から見える、まさに絶好の位置にあると言う事であろう。

 

3、資料1          

 資料は、桐生の文化財委員の池田和夫氏の息子さんで、建築士の池田格朗氏に正確に角度を出して貰った物である。
みての通り、久能山山頂、富士山山頂、根本山山頂、日光東照宮は一直線上にあり、その角度は、北から27度である。
 久能山東照宮と、日光東照宮を結ぶと富士山山頂を通ると解説している人もいるが、細かく測ると、久能山山頂から日光東照宮までの線上に徳川家発祥の地、徳川町の東照宮のすぐそばを線が通るが、富士山山頂の上は通らない。久能山山頂から27度線を引くと、富士山山頂は通らず、天海大僧正が住職した世良田の長楽寺と世良田東照宮のすぐそばを通り、根本山にいたる。そして、富士山の火口中心から27度線を引くと日光東照宮にいたる。それは、資料1の通り、久能山山頂、富士山山頂、世良田の東照宮、徳川町の東照宮、根本山山頂、日光東照宮は、全体が入る地図上に27度線を引くと線の幅の中に一直線で入ってしまうのである。

4、仮説1          

 山岳信仰で考えると説明がつく。山岳信仰では、山は死者が上り神になる場所であり、また、神が地上へ降臨する場所である。富士山は万葉集にも詠われた通り、日本鎮守の神が降臨する場所であった。

   徳川家康が、久能山に1年間埋葬された後、日光へ改葬されたのは、一般的には、吉田神道での明神号に対し、天海大僧正が異議をとなえ、権現号をつけ直して日光東照宮へ改葬したとなっている。

 徳川家康は、岡崎城で生まれ、駿府城で死に、久能山に1年間埋葬された後、日光に改葬された。日光東照宮は旧二荒神社の在った場所であり、二荒神社を移動して日光東照宮を造ったのは、その位置が重要であったからではないだろうか?

 日光東照宮、旧二荒神社の位置に埋葬する為には、まず、久能山に埋葬し神号をもらい神として再生する必要があった。

江戸城の鬼門封じの寺、寛永寺上野の山に、歴代将軍の墓がある。裏鬼門封じの寺、愛宕山、芝東照宮などがある増上寺にも歴代将軍の墓がある。
徳川家康が最初に埋葬され神として再生した久能山、東照大権現として一年後に日光に改葬した意味は、富士山に降臨する日本鎮守の神は、東照大権現であるからであると考える。同じ様に江戸城をはさんで、寛永寺、増上寺、歴代将軍の墓がそれぞれある。さらに、資料1と資料6の通り平行関係である。歴代将軍は、東照大権現と一体として江戸城、江戸を守護していると言えるのではないであろうか。

 神社は、そこに神が住んでいる分けではない。人が祭り、神を呼ぶ場所である。神は鎮守の山に居り、鎮守の森など等、自然物に降臨するのである。

寺院には、山号がある。○○山、○○寺という具合である。仏像は須弥壇の上にかざられる、須弥壇は須弥山を模った物である。寺院は山と考えてよいのではないか。仏が降臨する山である。
 それでは、日光東照宮がある日光霊域で東照大権現が降臨する山はどれであろうか?昔からある二荒神社の祭る山は、日光三山、つまり男体山、女峰山、太郎山である。

 私は、資料1の27度線上の桐生根本山ではないかと考える。根本山が日光霊域における東照大権現の降臨する山であるなら、まさに饗庭正男氏の言うとおり、根本山は特別な山である。

5、鎌倉と日光の位置

 鎌倉大仏の真北に線を引くと、日光女峰山である。
 江の島の真北に線を引くと、日光男体山、太郎山である。
 また、江の島と男体山の間に引いた線上川越のあたり、線上の幅内に、天海大僧正が住職をした川越の喜多院がある。世話人の坂口誠吾氏より、川越の喜多院が近くにあると指摘を頂いた。その時は特に重要性を感じなかったが、やはり天海僧正のこだわりが在ったのではと考える。

 

6、資料6          

 資料6の通り、江戸城本丸から、27度線を引いてみると、上野寛永寺の旧根本中堂(現在の噴水あたり)に至る。資料6の線左上のしるしは、湯島天神、その下、線右側が、神田明神、江戸城下、線右が増上寺である。

7、資料4          

 鎌倉大仏(阿弥陀仏)から27度線を引くと江戸の増上寺に当たる。私は、最初、寛永寺に当たるのではないかと考えたが、建築士、池田格朗氏に正確にしらべてもらったところ、増上寺であった。増上寺の本尊は阿弥陀仏である。
 増上寺は天海大僧正により、現在の位置に移動してきたのである。

8、仮説2          

 以上の資料から、なぜ奈良の大仏は盧遮那仏で、鎌倉大仏は阿弥陀仏なのか、長年の疑問が解けた。大仏は山岳信仰における山と同じ意味を日本人の中に持っていたのではないか?大仏は神が仏になり降臨する場所であったのではないか?盧遮那仏は、宇宙の真理を仏格化して表現したものである。東大寺は総国分寺である。全国にある国分寺の中心に位置づけられる寺である。
 つまり、日本全国の神が、たたりの神から慈悲の仏として再生する仕掛けとも考えられる。

そのような観点から考えて、鎌倉大仏は、日光の神が女峰山の本地仏である阿弥陀仏として降臨する場所として、日光霊域と一体であると考える。

 鎌倉幕府は、日光に霊的重要性を見出し、日光を整備したのでは?その原則を天海大僧正は知っていたのではないか?そして、その原則を徳川の江戸造りに応用したのではないか?寛永寺を造り、増上寺を移動したのは、鎌倉時代に出来た霊的関係を江戸に持って来る為であろう。
 つまり、東照大権現は、鎌倉を通じて、江戸と一体である。

9、資料10        

 桐生本町通りの角度は、当然27度と考えていたが、28,5度であった。絵図や磁石の時代である。磁石の誤差を考えると、佐羽秀夫氏の卓話集の通り、江戸と平行に造られたと考えて良いのではないだろうか。しかし、他があまりにも一致していた為、この1.5度の誤差の、他の理由も考えてみた。根本山に本町通りは向いているのではないかと考えてみたが、資料8の通り根本山山頂は、32.5度であった。
廃仏毀釈で、明治の時に、江戸の寛永寺の様な位置に在った桐生の天台宗大蔵院が、本町通りの突き当たりの位置から移動している。失われた参道が根本山に向いていたのではないか?そんな話を寺の参禅会で話していると。参禅会で山歩きが趣味の森川祐基崇氏がGPSで調べてくれて、資料10の通り、根本神社、桐生天満宮社殿、浄土宗浄運寺が、31.8度で一直線上に並んでいると報告してくれた。
そして、さらに延長して行くと、古峰ヶ原の古峰神社の霊域、神が降臨する三枚石の上を通り、日光東照宮に至ると報告してくれた。森川氏によると、まさに、日光東照宮の裏鬼門の位置に、並んでいるとの指摘であった。

10、仮説3          

 やはり、桐生において、江戸の寛永寺の様な位置にあった桐生大蔵院境内に、根本山山頂へ向いた参道があったのではないか?徳川家康の本地仏は薬師如来、江戸の寛永寺旧根本中堂の本尊は、薬師如来。桐生の天台宗大蔵院には、移動した藥師堂が今でもある。本尊は薬師如来、左脇仏が阿弥陀仏、右脇仏が釈迦如来である。日光輪王寺にある東照三所大権現は、本地仏は真中が薬師如来、左が阿弥陀仏、右が釈迦牟尼仏。根本山は、寛永寺の根本中堂と同じく「根本」と書く。根本山の祭神は、桐生市史別巻によると大山祇命(おおやまつみのみこと)である。大山祇命は、天照大神の兄であり、軍神であり、山の神であり、海の神である。そして本地仏は、薬師如来である。

根本山の隣りに十二山がある。十二山神社があり、神社による十二山の名の由来は、薬師如来を守る十二神将を祭る所から名前がついた。

 桐生根本山は、日光霊域において、東照大権現が降臨する山であり、日光東照宮と一体である。東照大権現が日光霊域で降臨する根本山は、言い換えれば根本中堂であり、桐生新町は、門前町である。

 

11、終わりに        

 以上の様に、桐生と世界遺産日光は、一体であると考える。しかし、この根本は、奈良時代から続く、山岳信仰上の日光と桐生のつながりにあった事を忘れてはならない。尾根伝いには桐生、日光古道があり、根本山系は、吉野の金峯山に相当するのではないか?
 従って私は桐生こそ関東における吉野であると位置づけたい。

桐生は織物を通じて、江戸の経済と一体であったのだ。そして、日光とのつながりで、霊的にも江戸と一体であったのである。
ここに改めて江戸文化を担ってきた桐生の歴史を再発見出来ると言えようか。
西の西陣、東の桐生では、ブランドは確立できない。京都の西陣、江戸の桐生でなければ、町起こしにはならないと考える。京都平安時代350年の平和の歴史があった様に、江戸も260年の平和な時代を持っている。その文化を担ってきたのである。

江戸と桐生は一体である、江戸文化の発信地として、自己存在の再リセットが必要ではないだろうか。それが「寺起こし、町起こし」となると願望するしだいである。

このつたない報告は冒頭に述べた様に、日々地域の衰退状況の中で、檀信徒と共に、新たなる文化の発信基地となる寺院の存在を考える事から出発している。
この構想を温めてこられたのは、先に紹介した地域の先学の情熱や、40年近くの交友が続く、日本仏教史の研究者である直林不退博士のアドバイスがあったからにほかならない。
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